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「キレ芸は借金がきっかけだった」カンニング竹山、吉本から3回逃亡した若手時代

暮らし

貫いた「芸人への夢」と「東京への野望」

――竹山さんは公立へ?

竹山:中学も高校も公立です。高校はヤンチャなやつらだらけで、原付乗って、夜遊びに明け暮れる毎日。僕は小学校からの同級生で、今福岡で芸人やってる田中健二(元「ケン坊田中」)とバンドを組んでいました。すると、音楽よりMCがウケる。僕と田中は芸人志望だったこともあって、そこで軽いコントまでやるようになって。

――その頃、進路についてどう考えていたのでしょう。

竹山:僕も田中も優秀な兄貴がいて、大学に行かない選択肢を言い出しにくい状況でした。だから、考えていたのは東京の大学に行くことだけ。大学というより、東京に行きたい。2人で東京の大学に行って、コンビ組んで、それから大学を辞めようという魂胆です。でも、2人とも現役では不合格。福岡で浪人生活が始まりましたが、その浪人も、2か月弱で辞めることになるんです。

 というのも4月の終わり頃、田中が福岡吉本の第一期生オーディション(1990年)を聞きつけてきて。腕試しで受けたらトントン拍子で優勝して、「ター坊ケン坊」というコンビでの活動が決まりました。親とは揉めたけど、予備校は、GW明けには辞めました。

 とはいえ、福岡吉本には僕と田中の他誰もいない。オーディションで特別賞だった「博多華丸・大吉」を、2人がいる福岡大学まで誘いに行きましたもん。「寂しいから吉本入りましょうよ」って。入るって聞いた時は、嬉しかったなあ。

吉本興業から3回逃亡するに至ったワケ

カンニング竹山

――福岡での芸人生活は、どうでしたか。

竹山:僕、1年経たないうちに、福岡吉本(吉本)から逃亡したんですよ。壮絶なスパルタ教育だったんです。毎日事務所で稽古やネタ見せをするんですが、所長からは怒鳴り声とともに灰皿をぶん投げられるのが日常茶飯事。ライブ終わりに、朝5時まで説教されたりね。

 その頃、吉本芸人でディベート番組『どっちもどっち博多っ子倶楽部』(TVQ)を持つことになったんだけど、ここでもダメ出しが猛烈。大吉さんなんか、謎に見切れるADやらされることになって(笑)。やることなすことボロクソに言われて、メンタルがおかしくなってきたんです。何やってるんだろう、そもそも僕らは東京行きたいんだ、と病みました。

 営業先の長崎・島原半島のホテルへ向かう車の中、カーラジオから流れてきたサザンの『旅姿六人衆』を聴いた時、「逃げよう」って、頭がパーンと“飛び”ました。その仕事を終えて、翌朝締切のネタ作りのために田中が家に来たんだけど、疲れてるし、2人とも爆睡。朝8時頃目が覚めたら、田中を帰して、僕は逃げましたね。知り合いの大学生に1週間かくまってもらいました。

 騒ぎになったので戻ったら、吉本からは「1か月舞台は出禁、裏方をやれ」というペナルティを言い渡されました。でもまた2~3週間で嫌になって、今度は東京行きの深夜バスに乗りました。2回目の逃亡です。すでに東京に住んでいた、兄貴の家に行きました。

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