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菅野美穂、上白石萌音も演じた“将軍夫人”の生涯。気位の高い嫁との反目の果てに

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和宮と篤姫…二人の女帝

江戸 城

※画像はイメージです(以下同じ)

 ただ、大老の井伊直弼は一橋派を弾圧したことで、激しい恨みを買って水戸の浪士らに襲撃され、江戸城桜田門外で命を落とした。これにより幕府の権威は失墜し、勤王の志士たちは朝廷を奉じて倒幕に動き始めた。

 危機感を感じた老中安藤信正は、朝廷と協調して政権を運営しようと公武合体運動を進め、公武(朝廷と幕府)融和の象徴として将軍家茂への和宮の降嫁の実現を目指した。和宮は孝明天皇の異母妹である

 文久元年(一八六一)、和宮の輿入れが正式に決定し、同年秋に彼女は江戸へ下った。こうして大奥は、新しい将軍の正室(御台所)を迎えたわけだが、篤姫は当初、和宮に対して激しい嫌悪感をもったといわれる。

 和宮から贈られた土産物の包み紙に、「天璋院へ」と書かれていたのだ。確かに和宮は皇女として身分は高いかもしれないが、形式的には篤姫は前将軍の御台所、いわば姑の立場にある。その姑に対し、さすがに呼び捨てはなかろう。

篤姫が指摘した和宮の高慢な要求

 さらに朝廷は、和宮が降嫁するにあたり、次のような条件をつけた。和宮本人とその周りの者たちは、すべて御所風儀(京都の朝廷と同じ様式)で生活させること。江戸城の生活に慣れるまで宮中の女官を側近としてつけること。父(仁孝天皇)の年忌に和宮を帰京させることなど、こうした要求をのませたうえで大奥へ入ってきたのである。

 何とも高慢な輿入れに、篤姫は我慢ならなかったはず。だから初対面のときに、篤姫は和宮の思い違いをはっきりと正した。自分は上段の間に分厚い茵(敷物)を敷いて座り、左脇の下座に和宮を座らせ、茵さえ与えなかったのである

 また、庭田嗣子(つぐこ)、鴨脚克子(いちようかつこ)ら和宮付きの女官(典侍 )には、居室として日当たりの悪い八畳間二室しか提供しなかった。

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