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綾野剛が大河で演じた「悲劇の大名」。将軍の“裏切り”から朝敵に

コラム

 2013年の綾瀬はるかさん主演の大河ドラマ『八重の桜』では俳優の綾野剛さんが演じた会津藩主・松平容保(まつだいら かたもり)。強大な軍事力を持つ会津藩の藩主で、幕末には、京都の治安維持のため、京都守護職にも就任した。

 ちなみに昨年の大河ドラマ、幕末から明治期に活躍した“日本の資本主義の父”渋沢栄一が主役の大河ドラマ『青天を衝け』では俳優の小日向星一さん(小日向文世さんの息子)が演じたことも話題になった。

八重の桜

八重の桜では綾野剛が演じた、松平容保。 ※画像は「大河ドラマ 八重の桜 完全版」1 ¥13,190

 そんな松平容保だが、明治維新後はどのような人生を送ったのか?歴史の偉人たちの知られざる“その後の人生”を人気歴史研究家の河合敦氏が解説する(河合敦著『殿様は「明治」をどう生きたのか』より一部編集のうえ、抜粋)。

松平容保、不幸の始まり

 歴史は、勝者がつくるもの。負けた側の言い分や弱者の声は消され、のちの世に残ることはほとんどない。新政府軍に敗れた会津藩も、長い間、賊徒としての汚名を着せられ、辛い立場を強いられてきた。不幸の始まりは、九代藩主の松平容保が京都守護職を引き受けてしまったことにある

 幕末の京都は、長州藩を中心とする尊攘(尊皇攘夷。天皇を敬い、外国勢力を排除しようとする思想)の志士が朝廷を牛耳るようになり、テロを行ったり、豪商など町人から金をせびる輩も多く、市中の治安は大いに乱れていた。

 これに危惧を抱いたのが、前越前藩主で幕府の政事総裁職・松平春嶽である。政事総裁職は、新設された幕府の最高職であった。春嶽ら首脳部は、それまでの京都所司代では事態に対応できぬと判断、京都所司代・大坂城代・京都町奉行・伏見奉行・大坂町奉行・奈良奉行の上位にあって、これらを統括し、畿内諸藩の軍事指揮権をもつ役職を設けることにした。それが京都守護職であった

「会津藩士は将軍への忠節を第一とす」

河合敦

河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』(扶桑社文庫)

 春嶽は、松平容保に京都守護職の就任を打診した。容保は、八代藩主・容敬の養子として九代会津藩主になった人で、もともと美濃国(岐阜県)高須藩主(三万石)・松平義建の六男として、天保六年(一八三六)に生まれた。だからこのとき二十代の後半だったが、虚弱な体質であった。

 それに、給される役料だけでは到底守護職の仕事をまかないきれないことから春嶽の依頼を固辞した。けれど春嶽はあきらめず、わざわざ会津藩邸に赴いて説得したり、哀願する手紙を書いた。

 京都守護職と会津の家訓最終的に容保は、京都守護職を引き受ける決断をする。決定打となったのは、春嶽からの手紙だった。そこには、「土津公あらせられ候わば、必ず御受けに相成り申すべくと存じ奉り候」と書かれていた。土津公とは、会津藩祖・保科正之のこと。つまり、「正之公なら、必ず引き受けてくださるでしょう」と記されていたのである。

 これが、容保の忠義心に火をつけ、病身をおして同職を拝命する決意をさせたのである。西郷頼母ら家老はなおも反対したが、容保は家訓第一条を口にした。この瞬間、誰もが口をつぐみ、異をとなえる者は霧散した。会津藩の家訓は十五カ条ある。そのうち第一条が「大君(将軍)の義、一心大切に忠勤を存ずべく、列国(諸藩)の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず(略)」というもの。すなわち「会津藩士は、将軍への忠節を第一とし、他藩のように行動せず、将軍家に尽くせ」という意味である。

殿様は「明治」をどう生きたのか

殿様は「明治」をどう生きたのか

外交官として世界各地を飛び回る元殿様や徳川宗家のその後など、14人の元殿様の知られざる生き様を、テレビなどでお馴染みの河合敦先生が紹介する

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