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綾野剛が大河で演じた「悲劇の大名」。将軍の“裏切り”から朝敵に

コラム

会津藩の再興を目指すも…

会津若松駅

現在の会津若松駅

 新政府はこの訴えを聞き入れ、明治二年(一八六九)十一月に、会津藩の再興を許したが、二十八万石の大藩はたった三万石に削減され、領地として陸奥や蝦夷地の荒野をあてがわれた。入植した藩士らは藩名を斗南(主に今の青森県むつ市内)と改め、新地で生きようとしたが、貧困と飢えにさいなまれ、廃藩置県後、多くがその土地を離れた。

 容大は明治三年(一八七〇)九月に最果ての地・斗南へ向かった。翌四年七月末に容保も斗南の藩庁が置かれた円通寺へ入った。すでにこのとき、廃藩置県が決定していた。藩士を裏切った容保だったが、家臣は円通寺に殺到し、容保の顔を見て感泣した。

 それから一ヵ月後、知藩事(旧藩主)の東京居住が決まり、容保は容大とともに東京へ戻ることになった。このおり容保は家中に、「お前たちと艱難をともにすることができぬのは、情において耐え難いが、やむを得ない。息子の容大が若年ながら藩主の職をまっとうできたのは、お前たちが艱難に耐え奮励してくれたおかげだ。ありがとう」と述べた。この言葉を聞いた会津武士たちは、その場で号泣した。

表舞台に出ず、宮司として生きる

 明治五年(一八七二)正月、容保は正式に謹慎を解かれ、明治九年に従五位を与えられた。朝廷から位階を授けられたことで形式的には賊徒の汚名も返上できたわけだ。だからといって、容保が華々しく活動するようになったわけではない。表には出ずにひっそりと暮らした。その生活の様子も、晩年の逸話もほとんど記録に残っていないことが、容保の気持ちを物語っていよう。

 実際容保は、旧臣の山川浩に「私のために命を落とした家臣は三千人にのぼるだろう。負傷して身体が不自由になった者や息子に先立たれて寄る辺のない者、飢えに苦しむ者も多い。すべては私の不徳の致すところだ。自分だけ贅沢な暮らしをしようとは思わない」そう述べたという。

 明治十三年(一八八〇)、容保は日光東照宮の宮司に任命された。徳川宗家の菩提を弔う職は、将軍第一と考えてきた容保には最もふさわしいものといえる。ただ、実際に日光へ赴いたわけではなく、翌年から明治二十一年(一八八八)までは会津を拠点としていた。やがて容保は、上野東照宮や会津藩祖・保科正之を祀る土津神社の祠官なども兼ねるようになった。

 なお、最晩年は東京で暮らしている。明治二十六年(一八九三)、容保は病気になった。このとき孝明天皇の女御・英照皇太后から牛乳が下賜された。すでに回復の見込みのない容保だったが、感泣にむせびながら、これを口にしたという。おそらくこのときはじめて、自分の罪が許されたという気持ちをもったのではないだろうか。それからまもなく、容保は五十九歳の生涯を閉じた

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