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徳川幕府最後の老中がたどった「数奇な運命」。維新後は20年もの隠遁生活に

コラム

 昨年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』で、ベテラン俳優の鈴木隆仁さんが演じた、最後の老中・小笠原長行。最後の徳川将軍・慶喜に仕えた人物だが、名前だけは学校の授業でなんとなく覚えていても、印象に強く残る人物ではないだろう。しかし、実は明治以降は数奇な運命をたどっていた。

青天を衝け

大河ドラマ「青天を衝け」 ※画像はNHK公式サイトより

 明治維新後はどのような人生を送ったのか? 歴史の偉人たちの知られざる“その後の人生”を人気歴史研究家の河合敦氏が解説する(河合敦著『殿様は「明治」をどう生きたのか2』より一部編集のうえ、抜粋)。

「廃人」として育てられたお家の事情

 唐津藩の小笠原長行は、幕末の老中である。ただ、極めて異例なのは藩主(当主)ではなく、世嗣(跡継ぎ)のまま幕府の重職についたという点だろう。しかも、藩主である養父は自分より二歳も年下なのだ。じつは、これには複雑なワケがあった。

 長行の父親である小笠原長昌は奥州棚倉藩主だったが、文化十四年(一八一七)に唐津六万石へ移った。ところが、二十八歳の若さで病歿(びょうぼつ)してしまったのである。このとき長男の長行はわずか二歳だった。普通に考えても藩主を務めることは困難だが、とくに唐津藩は長崎警備を担当していた関係から、幼君の襲封は認められなかった。そのため、長行は藩主の長男という立場にありながら「廃人」(障害や病気があって通常生活を営むことができない者)として幕府に届けられ、ひっそりと養育されることになった

 結局、次の唐津藩主には、庄内藩主酒井忠徳の六男である長泰が、長昌の養子に入って就任したのだった。だが、長泰はたいへん病弱な人物で、ろくに政務もとれない状況だったこともあり、十年で隠居を余儀なくされた。そこで、唐津藩小笠原氏の親戚にあたる旗本の小笠原長保の次男である長会が次の藩主になるのだが、長会は二十七歳の若さで急死してしまう。

 このため、今度は大和郡山藩主柳沢保泰の九男にあたる長和が新藩主となるも、これまた二十歳の若さで亡くなってしまう。唐津藩にとっては、まるで祟られているような不運が続いた。唐津藩では次に、信濃の松本藩主戸田光庸の次男長国を藩主とした。この長国が、長行より二歳も年下だったのである。ちなみに長行は、先に述べたような事情から、藩主の血統を継ぎながら、家を継承することができず、ずっと唐津城下に捨て置かれた状況だった。

学問を熱心に学び「老中格」に抜擢

河合敦

河合敦『殿様は「明治2」をどう生きたのか 』(扶桑社文庫)

 二十一歳になったとき、江戸にのぼって深川下屋敷の一角に住むが、その食い扶持ちとして一月わずか五両しか与えられなかったという

 しかし長行は不満を言うこともなく、松田順之、朝川善庵、江川太郎左衛門などから学問を熱心に学び、当代一流の学者である安井息軒、藤田東湖、羽倉簡堂などと親しく交わり、その英才ぶりは、広く知れ渡るようになったために藩内外から「長行は将来、唐津の藩主となり、幕政に参与すべきだ」という期待が高まり、長行を現藩主長国の世嗣にしようという運動が起こり、ついに三十六歳のとき、長行は長国の跡継ぎの座についた。

 この時期、すでにペリーが来航し、下級武士の間で尊王攘夷運動が盛り上がりつつあった。だが、開明的な長行は一貫して開国を主張していた。世嗣となった長行は、藩主の名代として唐津で藩政に参画するようになったが、その才能を見込んで、土佐藩主の山内容堂が強く幕閣に長行を登用するよう求めた。

 その甲斐あって、まことに異例ながら、文久二年(一八六二)七月、長行は幕府の奏者番に登用され、翌月には若年寄に転じ、さらに九月、老中格に抜擢され、その分掌として外国御用取扱、すなわち、いまでいう外務大臣となったのである。長行は老中に就任すると、大きな外交問題の解決を迫られることになった。同年八月に発生した生麦事件(薩摩藩士によるイギリス人殺傷事件)をめぐり、翌文久三年イギリスの代理公使ニールが莫大な賠償金の支払いを幕府に強く迫ってきたのだ。

殿様は「明治」をどう生きたのか2

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