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徳川幕府最後の老中がたどった「数奇な運命」。維新後は20年もの隠遁生活に

コラム

旧幕府軍、新政府軍による死闘

 榎本武揚率いる旧幕府艦隊は、噴火湾で比較的波が穏やかな鷲ノ木湾を選んで来航したのだが、激しくなる風雪と高波のなか、仕方なく上陸を強行した。このおり、小舟が転覆して十数名の命が失われるというアクシデントが起こったと伝えられる。大人数を本陣などの公共宿泊施設だけで収容できるはずもなく、民家のみならず近隣の村々も一時旧幕府軍の兵士が陣取る状態になった。

 旧幕府軍は、人見勝太郎と本多幸七郎の二名を使者とし、一小隊(約三十名)に守らせ、箱館府(新政府が箱館五稜郭に置いた組織)へ派遣した。二人とも元幕臣で、歴戦の強者だ。人見と本多は「蝦夷地を徳川旧臣のために下賜してほしい」という嘆願書をたずさえ、箱館府へ向かった。願いが通らぬときは、一戦を交える覚悟だった。実際、二人の後を追うように大鳥圭介率いる旧幕府軍が進発している。大鳥軍は鷲ノ木から茅部街道を通って箱館までの最短ルートを進んだ。率いる部隊は遊撃隊、伝習士官隊、新選組など総勢七百名。

 それとは別に元新選組副長の土方歳三を将とする額兵隊、陸軍隊を中核とする洋式部隊約五百名が進撃を開始していた。同隊は森、砂原、下海岸、川汲峠へと進み、大きく右へ折れて湯ノ川から箱館市街へ突入する進路をとった。同月二十二日夜、峠下で宿営していた人見と本多ら遣使小隊が、突然何者かの銃撃を受けた。箱館府の命令を受けた竹田作郎を隊長とする松前藩兵と津軽藩兵の夜襲だった。人見ら遣使小隊は、駆けつけた大鳥隊と力を合わせ、兵を小高い山上に散開させて応戦した。こうして戦いの火蓋は切って落とされた。

箱館をめぐる死闘

新撰組

新撰組発祥の地(京都)

 大野という地域には、新政府軍が四、五百人陣取っていた。大鳥がそこに奇襲をかけると、新政府軍はあっけなく大量の武器弾薬を捨てて遁走してしまった。さらに文月でも難なく敵を瓦解させたが、人見率いる部隊については七重で激戦を展開した。七重は箱館五稜郭へ通ずる重要拠点なので、何としてもこの地で敵を防ぐべく、箱館府権判事堀真五郎率いる新政府軍五百が三隊に分かれて高台に陣取っていたのである。

 人見隊は危機に陥るが、敵の包囲を破って遊撃隊副隊長大岡幸次郎や隊士の杉田金太郎、砲兵長諏訪部信五郎や新選組の三好胖ら猛士たちが、「奮怒の刀を振い弾丸雨注を侵し敵中に躍り入り、数十人を殺傷」(『今井信郎著『蝦夷之夢』』)したことで、戦いの流れが変わった。これを見て奮い立った遊撃隊をはじめとする人見隊が、「銃を投げ刀を振って衝き入り、縦横に馳せ回る。呼声地に震い、深雪変じて紅の如く、尸横たわって丘のごとし。南軍おおいに破れて散乱す」(『前掲書』)とあるように、最後は敵陣に一丸となって突撃を敢行するという気迫の白兵戦によって、勝利をつかんだのである

 この戦いで新政府軍は二十名近くの犠牲者を出したが、旧幕府軍も突撃をおこなった新選組の三好胖やその家来の小久保清吉など七名の死者を出し、重傷を負った大岡幸次郎や諏訪部信五郎も治療の甲斐なく後日息絶えた。三好はわずか十七歳であった。じつはこの三好胖という少年の名は変名で、本名は小笠原胖之助といった。長行の父唐津藩主の小笠原長昌が死去した後、庄内藩主酒井氏から長泰が養子に入って家を継ぐが、胖之助はその末子であり、長行が彼を養育したのだ。まさに我が子のように可愛がってきた少年であった

 この胖之助も長行同様、おとなしく新政府に下ることを潔しとせず、五月の上野戦争では数名の唐津藩士とともに彰義隊に加わった。戦いに敗れたあとは身を隠して東北へ潜行し、会津で新政府軍に抵抗、その後は仙台まで逃れ、長行とともに蝦夷地へ行くことを決めたのだ。このさい胖之助は、新選組に入隊して一兵士となった。そして壮絶な最期を遂げたわけだ。いずれにせよ、五稜郭の箱館府(新政府方)では味方の敗北を知ると狼狽し、二十四日夕方に全軍を五稜郭に撤収させた。

 さらに五稜郭に籠城しても冬に援軍の到来が期待できないため、その日の夜半、箱館府知事の清水谷公考以下新政府の官僚は五稜郭を脱出し、翌二十五日未明、箱館港から船で逃亡した。こうして榎本武揚率いる旧幕府軍は箱館に入った。

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