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徳川幕府最後の老中がたどった「数奇な運命」。維新後は20年もの隠遁生活に

コラム

二十年の隠棲生活

 こうして一月が経ち、晴れて小笠原長行は自由の身となった。長行はその後、駒込動坂に小さな邸宅を購入してそこに移り、ガーデニングや盆栽を趣味とし、子供たちの教育にあたったものの、政治の表には二度と顔を出さなかった。それだけではない。親戚や旧故に対しても一切会おうとしなかったのである。明治九年、長行は従五位に叙されて名誉を回復、同十三年には従四位にのぼった。だが、かつての同僚といえる会津の松平容保や福井の松平春嶽が訪ねてきても、居留守を使って決して対面しなかった。

「箱館に渡って胖之助を失ったとき、老中小笠原長行も死んだ」、そう考えていたのかもしれない。晩年、長行は「與人異七事」という漫言を記している。自分が他人と際だって異なるところを七つ書き記したものだ。足に電気(エレキ)をあてても何も感じない。壮年のときは朝全然腹が減らなかった。大好きなものはたくさん食べないほうがよい。三十六歳のときに初めて子が生まれ、その後、六十一歳まで七人の子ができた。自分は子供のときからやせっぽちで、運動しなくても太らない。

 このようなたわいのない内容である。しかし、次の文章は、長行の資質を非常によくあらわしているように思う。「我性質は先厳格なる方にて、たとへていはゞ箪笥の引出に物を入置にも、右の方には如斯もの、左には何々、奥には何とチヤント位置をきめて、数度出しいれしても乱るゝ事なく、本箱の書物は一より十までそろへて入置、度々引出して見ても、本の通りそろへて入置故、くらやみにて取出しても間違ふ事なし。大小総て此類にて、物を置にも一分にても曲りては心よからず、という様なる気質是本体也」(『前掲書』)

潔癖症、完璧主義者だけど、優柔不断?

江戸 城

 完全な潔癖症、完全主義者であることがわかる。しかしその一方で、「拘泥し、或は因循して変化なきは甚好まず」「飄然活溌を悦んで、総て奇抜の意思あらざるは大いに厭ひ嫌ふ」(『前掲書』)。実際、長行はあくまで己の主張を通す完全主義者でありながら、攘夷という大勢に逆らい、当時としては最初から一貫して開国をとなえ続けている。また、自分はいつもは優柔不断の性格で、たいていは多数に従うが、場合によっては「勇断決定して不顧疾雷不及掩耳の趣あり」というように、思い切った決断をただちにくだすという矛盾したところがあると回想している。

 いずれにせよ、維新後は人前に出ず二十年を生きた小笠原長行は、明治二十四年(一八九一)一月二十二日に死去した。享年七十であった

 晩年、長行は息子の長生に、「俺の墓石には、声もなし香もなし色もあやもなし、さらば此の世にのこす名もなし」とだけ刻んで、俗名も戒名もなしにしてもらいたいと言ったという。また、その辞世の句は「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」という変わったものだった。藩主の子として生まれ、「廃人」として育てられた長行は、その優れた才覚により幕府の老中までのぼって激動の世の中を動かした。しかし時勢によって幕府は倒れ、賊とされてすべての功績は消されてしまった。ならば、自分が此の世にいたことに何の意味があったのか――。そんな長行の悲痛な叫びが聞こえてくるようだ。

<TEXT/歴史研究家 河合敦>

歴史研究家・歴史作家・多摩大学客員教授、早稲田大学非常勤講師。1965年、東京都生まれ。青山学院大学文学部史学科卒業。 早稲田大学大学院博士課程単位取得満期退学。歴史書籍の執筆、監修のほか、講演やテレビ出演も精力的にこなす。
Twitter:@1ne15u

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