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菅野美穂、上白石萌音も演じた“将軍夫人”の生涯。気位の高い嫁との反目の果てに

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姫に与えられた密命?

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河合敦・著『お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか』(扶桑社文庫)

 そうした状況を打破し、慶喜の将軍就任を実現しようと、島津斉彬は篤姫を大奥へ送り込んだというのが、通説となっている。しかし、家定と篤姫の婚約が成立した嘉永六年(一八五三)の時点では、まだ家定は将軍に就任しておらず、この段階では、斉彬にその意図はなかったというのが、近年、有力な見解になっている。

 それでも、その年のうちに十二代将軍家慶(いえよし)が死去して家定が将軍についており、なおかつ、篤姫が正式に輿入れする安政三年(一八五六)には、すでに将軍後継問題が表面化しているので、篤姫の大奥入りのさい、斉彬が一橋派が有利になるよう政治工作を命じたのは間違いないと思われる

 それにしても当時、将軍家定はまだ三十代前半であった。まさに男盛りといえる。なのになぜ、後継者問題が発生したのだろう。

徳川家に「後継者問題」が起きたワケ

 それは、家定に子供が生まれる可能性が皆無だったからである。家定は、前将軍家慶の嫡男として生まれたが、幼少より体が弱く、正座もできないほどであった。常に首を振る症状を呈し、身体をよく痙攣させていたといい、病気だったのか、あるいは身体に何らかの障害をもっていたようだ。

 決定的なのが、女性と性交渉がもてなかったことである。老中の久世広周(ひろちか)が、「将軍は性的不能である」と証言していることから、すでに幕閣内では、周知の事実だったようだ。

 そんなわけだから、たとえ妻や側室がいても子供ができるはずもなく、後継者問題が持ちあがるのは当然のことだった。

 結局、将軍家定は、在職わずか五年で病死してしまう。篤姫との結婚生活も二年足らずだった。死因は脚気だといわれるが、まだ三十五歳の若さであった。安政五年七月六日のことである。

 この前後、きっと篤姫は一橋派のために、大奥に対する政治工作を必死におこなったと思われる。だが、結局それは実を結ばなかった。南紀派のリーダーである彦根藩主井伊直弼が大老に就任、強引に将軍後継者を十三歳の紀州藩主徳川慶福に決めてしまったからである。同年、慶福は家茂(いえもち)と改め、十四代将軍に就任した。

お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか

お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか

知られざるお姫様たちの生き様を、人気歴史研究家の河合敦先生が紹介する

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