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菅野美穂、上白石萌音も演じた“将軍夫人”の生涯。気位の高い嫁との反目の果てに

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徳川家に「後継者問題」が起きたワケ

江戸 お城

 篤姫付きの女中と和宮付きの女中はそれぞれおよそ三百名近くおり、以後、両派はことごとく対立するようになったといわれている。文久三年には、突如、篤姫が「本丸から二の丸へ移居する」と和宮側へ伝え、驚いた和宮があわてて側近を通じ、その行為を思いとどまるよう懇願する一幕もあった。

 こうした両派の確執は、幕府崩壊まで続いていく。たとえば、将軍家茂の後継者をめぐっても対立が起こっている。家茂は第二次長州征討の最中、大坂城中においてにわかに病に陥り、慶応二年(一八六六)七月二十日、二十一歳の若さであっけなく死歿してしまう。すると後継者をめぐり、大奥内部ではさっそく亀裂が生じた

 大奥は当時、三派に分かれていた。老女派(佐幕・保守派)と篤姫派(前将軍家定の正室・薩摩藩出身)と和宮派(家茂の正室・孝明天皇の妹)である。

老女派、篤姫派、和宮派の三派

 いうまでもなく老女派は、水戸出身の慶喜を毛嫌いしていた。また篤姫も、将軍家茂が大坂へ向かうさいの、「自分にもしものことがあれば、田安亀之の助を後継者にしてほしい」という遺言を尊重し、老女派に同調した。

 対して和宮は、慶喜を敬愛している孝明天皇の妹ゆえ、名こそ口に出さなかったものの、「只今の御時勢、御幼年(亀之助)にては如何と御心配遊ばし候共、御後見にても慥(たし)かなる御人御座候わば御よろしくながら、左様なくてはまことに御大事ゆえ、余人しかるべき人体天下の御為に勘考御座候」(『静寛院の宮御側日記』)と暗に慶喜を推薦した。

 もちろん、老女派も負けていない。彼女たちは慶喜派の老中の板倉勝静(かつきよ)に「家茂公のご遺命は田安殿なのだから、すみやかに田安殿を将軍にするように」と再三強く迫って板倉を牽制し、尾張藩や水戸藩などに工作をおこなって慶喜の将軍就任を妨害した。

 篤姫も次期将軍は「ご遺命に従って田安殿を」と閣僚に説き、嫁の和宮にさかんに翻意を促したのだった。大奥の戦いは、いったん老女派・篤姫派に軍配が上がる。和宮が夫家茂の遺命に従うことに同意したからだ。しかし、最終的には板倉勝静の周旋で、慶喜の擁立を決定、亀之助を慶喜の後嗣(後継者)にすることで老女派・篤姫派を納得させ、反対運動は沈静化された。

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