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「山一證券」はなぜ破産し、殺人事件まで起きたのか?――平成の企業スキャンダル史

ビジネス

 平成も残りわずか。

 前回に引き続き、平成時代に起きた企業スキャンダルを振り返ってみましょう。

yamaichi

 第2回目は1997年の山一證券自主廃業の事件です

バブル時の証券会社のイケイケ具合

 当時、野村證券、大和証券、日興證券(現・SMBC日興証券)とともに、「四大証券」のひとつであった山一證券。その中でも企業の法人関連業務に強みを持っていいたため、「法人の山一」の異名を持つ大手證券会社でした

 しかし、そんな大手證券会社が突然、1997年に廃業。1990年代のバブル崩壊後、平成の不況のシンボルとして、多くの人に記憶されている出来事です。

 発端は、1980年代末から行われた政府による、バブル経済の抑制を目的とした「金融引き締め策」。

 公定歩合の引き上げ、総量規制など、異常に膨れ上がったバブル経済を抑止するため、大蔵省(現在の財務省)や日本銀行によって、さまざまな金融政策が実施されました。

 放漫な営業や経営などを行っていた金融企業は、ここで“大転換”を余儀なくされます。山一證券は、これらの金融政策により「営業特金」と呼ばれる法人向けの資産運用方法が、多大な損失を生み出しました。

バブル崩壊、そして祭りのあと

茅場町

東京都中央区の茅場町タワー、かつての山一證券本社
photo by Harani0403 CC BY 3.0

 営業特金は通称「ニギリ」とも呼ばれ、法人から資産運用を丸投げしてもらい、一定の利益を保証するというスタイルです。

 莫大な金額が動くため、証券会社にとっては高い手数料が期待できます。今では営業特金は法律で禁止されていますが、当時、山一證券は、相当な額の営業特金を抱えていたといわれており、1987~1990年の山一證券は毎年1000億円を超える経常利益を上げていました

 それが、1989年から始まった数回にわたる公定歩合の引き上げにより、株価は暴落。

 法人に確約していた利益が運用によって補填できなくなっていきます。ついには、法人に対する利益を支払うため、逆に証券会社が損失を被っていくようなことが増えていきました。

 さらに、この優遇された法人に向けての損失補填が社会的にも問題になり、1990年には営業特金自体が大蔵省により禁止されてしまいました

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