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日本の“多様性”なんてウソ。この国が放置してきたもの<ダースレイダー×映画監督・原一男>

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津久井やまゆり園事件の犯人は「向き合ってない」

sayounara

『さようならCP』(1972年)

ダース:空っぽの言葉だけをならべて「この事件をきっかけに」とか「議論が必要だ」とか言ってるけど、本当なら365日ずっと考えてきた人たちが初めてその議論をするべきなんです。前提になる社会が未熟なんですよ。優生思想、安楽死うんぬんの議論をしたいのであれば、徹底してそのことを、普段から考えないと。

 津久井やまゆり園事件の裁判記録を読んで思ったのも、犯人の植松(聖)は「向き合ってないんだな」ということ。空っぽの言葉で人に生き死にの話をしている。植松は「意思疎通できない人はいらない」と言っていたけど、脳性マヒの人たちだってずっと一緒にいれば、今この人が何を感じているのか、何がしたいのかって、わかるようになるじゃないですか。『さようならCP』で原さんが言語障害を持つ脳性マヒの人の言葉に字幕を付けなかったことは、障害者のコミュニケーション問題への回答になっていると思います。

 もしコミュニケーションが取れないんだったら、それは相手に向き合ってないということ。食べようとしているとき、動こうとしているとき、車椅子に乗ったとき、彼らがどんな表情や行動をしているか感じ取ることができていれば、空っぽの言葉を並べた会話なんて何の意味もないことは、わかるでしょって。70年代にすでにそれが提示されているにもかかわらず、まだ今その話をしてるのかって思いますよ。

「生産性がない」「役に立たない」について考える

――優生思想の言説には、“生産性があるかどうか”や“役に立つかどうか”という価値観がたびたび出てきますよね。

ダース:僕は「役に立つ・立たない」って言葉もただの箱でしかなく、人によっていろんな意味があると思います。例えば、僕が車椅子に乗った人とどこかへ移動しようとして、車椅子を押すという経験をしたとしますよね。そのとき、僕は車椅子に乗った人のおかげで、車椅子を押すスピードで街を眺め、移動する経験をさせてもらっている。相手は「押してもらってる」と思うかもしれないんですけど、僕からしたら、さまざまな学びになっているんだと。これって“役に立ってる”じゃんって。

 言語障害がある人とコミュニケーションを取ろうとするときだって、どうしたら伝わるのか考えている時点で脳細胞使ってるわけだから、それは成長させてもらってるじゃないかと。視覚障害の人を道案内するときに初めて獲得できる表現方法があるじゃないかと。

『さようならCP』も「青い芝」が存在しなかったら生まれてなかったし、20年後に僕が見ることもなかった。その時点で彼らの「私たちは存在していいのか」という問いへの答えはすでに出ていますよね。それを「役に立たない」とか「労働力として…」とか「使う・使われる」という関係性だけで決め付ける、その視点がすでに狭いわけです。健常者はその狭い視点だけでもやっていけるのかもしれない。けど、そうじゃない。教えてくれる存在に対して敬意を持って接するべきなんです。

――なぜ、そのような狭い視点が生まれてしまうのでしょう?

ダース:これは社会の設計の問題です。「この社会に対して障害を感じる人」が身体障害者と呼ばれている。この社会が健常者に合わせて作られてしまっているからです。だけど、ホーキング博士みたいに座って考えているだけでも、世界中に発信できる環境があれば“優秀な人”になるわけですよね。だから、たかだか僕らが作ったしょぼい社会で障害がある程度で「いる・いらない」なんて話をしているのは非常に傲慢なんです。

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