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0.5%「微アルコール」が誕生。アサヒビールの“社外から来た専務”が熱く語る

ビジネス

 外出自粛や時短営業で業務用ビールの需要が激減。ビールメーカーも軒並み苦境に立たされている。そんななか、アサヒビールは消費者志向で、消費者の価値観に合わせた、新たなブランド価値の再定義を狙っている

アサヒビール

アサヒビール専務取締役 兼 専務執行役員の松山一雄氏

 アサヒビール専務取締役 兼 専務執行役員 マーケティング本部長の松山一雄氏に、これからの事業展望やマーケティング戦略について話を聞いた。

大学でのディベート経験がきっかけ

 松山氏はこれまでゼネコン、製造業、消費材メーカーなど、国内外でさまざまな業界を渡り歩いてきた。海外でビジネスの研鑽を積んできた背景について、松山氏は「大学時代、英語でのディベート経験にさかのぼる」と言う。

「英米文学科を専攻していたこともあり、『ESS(English Speaking Society)』という、英語を使ったディスカッションやディベートをするクラブに所属していました。母校である青山学院大学は、全国でもトップクラスのディベート力を誇っていたんです。いま思うと、この頃の経験が、海外や外資系企業で働く伏線となっていたかもしれません」

 英語でのスピーチや異文化のコミュニケーションを学ぶうちに、いつしか「海外で活躍するビジネスマンになりたい」と思うようになったそうだ。

運命的な出会いから、マレーシアで転職

アサヒビール

 大学卒業後は大手ゼネコンの鹿島建設へ。2年間の国内勤務を経て、マレーシアへと転勤。そこで、株式会社サトー(当時。現 サトーホールディングス)の創業者・佐藤陽氏と運命的な出会いを果たすことになる

「最初は鹿島建設にお仕事を発注いただいた、取引先の社長としてお会いしたんです。当時の日本はちょうどプラザ合意のあおりを受け、急激に円高が進み、事業の構造改革を余儀なくされていました。サトーもちょうど思い切って海外事業に舵を切ろうとしていた時で、『社運をかけて世界に打って出る』という気概のもと、マレーシアに工場を作ろうとしていた。社長が思い描くグローバル展開の青写真に、私自身も強く感化されました」

 終身雇用が前提だった1980年代当時にもかかわらず、松山氏は26歳の時、新卒入社した鹿島建設から、まだ売上100億円規模で未上場だったサトーへ転職した。

「周りは年上ばかりで、だいぶ磨かれましたね(笑)。異国の地でなぜ転職したのかといえば、未来に可能性を感じたから。その頃のサトーは、中心事業だったハンドラベラーに加えて世界に先駆けて発売したバーコードプリンターを世界に広めたいという一心で、マレーシア工場の立ち上げようとしていた。若気の至りというか、会社の情熱を感じていました

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