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ナチスが美術品を略奪したおぞましい理由。今も10万点が行方不明

 人類の歴史で最も恐ろしい罪を犯したナチス。ところが、彼らが遺した罪はホロコーストだけではありませんでした。

奪われた名画のゆくえ

『ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画のゆくえ』
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 1933年から45年にかけて、ナチスがヨーロッパで略奪した絵画、彫刻、タペストリーなどの美術品は約60万点にものぼり、戦後70年以上たった今でも10万点以上が行方不明です。

 4月19日にはこの史実に迫ったドキュメンタリー映画『ヒトラーVS.ピカソ 奪われた名画のゆくえ』も公開されます。なぜナチスは、ヨーロッパ中の美術品を盗んだのか――? 今回は4つの視点から謎に迫ってみたいと思います。

1:ウィーンに復讐したかったヒトラー

 ドイツの美術史家ハンス・クリスチャン・レーア博士によると、ヒトラーはオーストリア帝国の首都ウィーンに根深いコンプレックスを抱いていたのだとか(※1)。

 18歳のヒトラーはウィーンにある造形美術アカデミーへ入学しようとしますが、不合格になってしまいます。税関職員であった父は彼を役人にしたかったのですが、ヒトラーは画家志望をあきらめきれず、母クララだけが彼の夢を応援していました。ところが、アカデミーの入試に落ちて故郷に戻ったヒトラーを待ち受けていたのは母の死。父を13歳で亡くしていた母っ子の彼は悲嘆にくれ、ウィーンへ戻り、2度目の入試を受けますが、またもや落ちてしまいます。

 その後、ウィーンに残ったヒトラーは一時はホームレスにもなるほどの困窮生活を送り、当時、国際文化都市として花開いていたウィーンを憎むようになりました。この時、200万人いたウィーンの人口のうち1割がユダヤ人で、彼らは知的エリートから犯罪者まで様々な社会階層に存在しており、ユダヤ人とほかの民族との間にはある一定の緊張感があったのだとか。貧困と屈辱にまみれたヒトラーはこの地で反ユダヤ主義を培っていったのです(※1)。

 1937年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合した後、ヒトラーは故郷の近くリンツに世界一の「総統美術館」を建設する構想に熱中。リンツをウィーンよりも文化的な都市にしたかったヒトラーの野望が、ナチスの美術品略奪の動機のひとつになりました。

2:ナチス・イデオロギーとしての芸術

奪われた名画のゆくえ

 ナチスがヨーロッパ各地から美術品を略奪した方法は様々ですが、その最たるものはドイツ国内のユダヤ人富裕層が所有していた作品を出国ビザの代わりに、安値で買い叩くというもの。

 作中、何人かのユダヤ人画商や銀行家の物語が語られますが、なかには出国ビザをもらうどころか強制収容所で処刑された者もいました。その後、ナチスは占領した国々で「家具接収」と称して個人宅、教会や美術館から名品を接収していきました。

 これらの名品は「総統美術館」建設のために保管されたり、ナチス幹部の邸宅に飾られたりしたほか、ヒトラー自らが企画した「大ドイツ芸術展」で展示されました。1937年から44年まで毎年開催されたこの芸術展では、筋肉隆々の男性の肉体、「母と子」をテーマにした絵画、女性の裸婦像、農村の生活や田舎の風景などを描いた“古典美術”が賞賛されていたのだとか。

 そこには、シンプルな生活、アーリア人男性の力強い美、「女性は、健康で美しい金髪の子供たちをたくさん産んで総督に捧げよ」というイデオロギーが込められていたのです。このようにして美術品は、ナチス神話を作り上げ、宣伝する道具として利用されたのでした。

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