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東京駅〜成田空港わずか30分で結ぶ「成田新幹線」幻と消えた計画の顛末

暮らし

 2022年は、日本の鉄道開業150年周年。新幹線も1964年10月に開業してから60年近くが過ぎた。出張に、帰省に、旅行に、欠かすことのできない交通手段だが、よくよく考えてみると、さまざまな謎が次から次へと浮かんでくる。

新幹線

※画像はイメージです(以下同じ)

 時速300キロで走る新幹線の窓は、小石が当たってもなぜ割れないのか? 北海道新幹線の先頭車両が長い理由は? そんな新幹線にまつわる謎の数々を解説した『最新版 新幹線に乗るのがおもしろくなる本』(著・レイルウェイ研究会)より、なぜ、成田新幹線は幻と消えたのか?などを紹介する。

新幹線は、壮大な計画から始まった!

 新幹線は日本の鉄道技術が生んだ最高傑作である。なんといっても世界に先駆けて、時速200キロメートルを超えるスピードの列車を、ダイヤどおりに定期運行させるのに成功した。1964年10月1日に開業した東海道新幹線は当初、夢の超特急と呼ばれたが、その計画の原型は昭和初期にすでにもち上がっていたもので、じつは半世紀以上の時を経た夢の実現だった。

 新幹線という発想は、昭和初期の時代背景のもとで生まれた。そのころ中国大陸の植民地化を図っていた日本からは、東海道・山陽本線を経由して朝鮮半島への連絡船で人とモノが運ばれた。朝鮮半島では京釜鉄道を経由して中国へ至ることができたから、交通の主役は鉄路だった。その鉄道を、東京から大陸まで直通で結ぼうというのが当時の夢の列車だったのである

 大陸への進出が進むと、東海道・山陽本線の輸送力には限界が見え始めた。その解消に標準軌の新線を東京~下関間の1000キロメートルに走らせて、さらには大陸まで結んでしまおうというのが発想の始まりだった。鉄道省内で「新幹線計画」と呼ばれたこのアイデアは、1940年に帝国議会で承認され、俗に「弾丸列車計画」と呼ばれることとなった。

東京~北京を直通で結ぶ計画の顛末

レイルウェイ研究会

レイルウェイ研究会『最新版 新幹線に乗るのがおもしろくなる本』(扶桑社文庫)

 対馬海峡に海底トンネルを掘削して朝鮮半島・釜山で陸上へ出ると、北平(現・北京)までを東京と直通で結ぶという壮大な計画だった。翌年には、東海道新線のための新しん丹たん那なトンネル、日本坂トンネル、新東山トンネルの工事が始まり、3年後には全ルートの16パーセントにあたる用地買収にも成功して、計画は進むかに思えた。

 しかし太平洋戦争が始まったために余力をなくした国は工事を中断、やがて日本は焦土と化し、弾丸列車の夢は消えてしまった。戦後、寸断された在来線の復旧に全力を注いだ当時の国鉄は、1957年、国鉄鉄道技術研究所の研究成果を発表する。「東海道線に広軌(標準軌)の新線を敷設すれば、電車列車方式で最高時速250キロメートルを出すことが理論的には可能で、東京~大阪間を3時間で走れる」というものだった。

 弾丸列車計画では時速200キロメートルを想定していたことを考えれば、時速を50キロメートルもスピードアップしての夢の復活だった。これに基づき、2年後には新丹那トンネル東口で起工式が行なわれ、夢の超特急工事が再開されたのである。

最新版 新幹線に乗るのがおもしろくなる本

最新版 新幹線に乗るのがおもしろくなる本

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