『ハウルの動く城』を解説。型破りで真っ当な“恋愛映画”になった6つの理由
6:戦争のある世界で、幸せになるために
本作では、原作小説ではわずかにしか描かれていなかった戦争の脅威が、街中で明確に見えるようになっています。これは、宮崎駿監督が現実の世相を反映させたため、時代の空気を取り込むことで今日性のある作品にする意識があったためです。
劇中の戦争について宮崎駿監督は「近代的な国家間の総力戦であり、おとぎ話の戦争や、個人の勇気や名誉をかけた戦闘ではない」とも語っており、絵コンテを執筆中の2003年3月にはアメリカがイラク空爆を行ったという事実もありました。
この劇中の戦争への向き合い方について、さらに宮崎駿監督は興味深い言及をしています。長めに引用しておきましょう。
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<ハウルは徴兵をまぬがれているようですが、戦争に協力することを求められます。要請ではありません強要です。ハウルは自由に素直に、他人にかかわらず自分の好きなように生きたい人間です。しかし、国家はそれを許しません。「どっちにつく?」とハウルとソフィーも迫られるのです。
(中略)総力戦のおそろしさが現実のものとなっていきます。いったい、ソフィーとハウルはどうするのでしょう。この点をきちんと描いた時、『ハウルの動く城』は、21世紀に耐える映画になるでしょう。ただし、ハウルとソフィーが力を合わせて、戦争をやめさせたとか、人々を救ったというような展開は、もっと空虚なものになります。自分たちのこれからの生き方も問われる形で、この難題にいどまなくてはなりません。(『「ジブリの教科書13 ハウルの動く城』「ハウルの動く城 準備のためのメモ」より引用より)
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つまりは、「近代的な国家間の総力戦は(戦争を望まない)個人の行動が直接寄与できるものではない」としているのです。そして、最後にハウルとソフィーがどうしたかと言えば、空を飛ぶ城に乗り、恋人のハウルだけでなく、愛する家族と共にどこかに飛んでいくというものでした。
このソフィーたちの行動は「亡命」であるとも思います。現実の亡命は一歩間違えば命を落とす危険もある、過酷な旅路になることが多いでしょうが、この『ハウルの動く城』ではファンタジー作品ならではのハッピーエンドとして、そのことを描いたとも言えるのではないでしょうか。
「また新たな戦争が始まっている」
また、最後に魔女サリマンが「このバカげた戦争を終わらせましょう」と言っただけで片付けられたようにも思えてしまう劇中の戦争ですが、ラストでは空を飛ぶ城の下を、艦隊が逆方向に飛んでいたりもします。実は、また別の戦争が始まってしまっているのです。
事実、鈴木敏夫プロデューサーは「こんなにあっさり戦争を終わらせてしまうのは、安易にまとめすぎなのではないでしょうか」という質問に対して、「今、現実世界の戦争はどうなっていますか? 色々な戦争が、ある日突然始まり、ある日突然終わる。そして、すぐにまた始まる。だから『ハウルの動く城』でもそのように描いたのです。あなたは最後のカットをどう見ましたか? 飛行機(艦隊)が飛んでいるでしょう。宮崎駿としては、また新たな戦争が始まっているんですよ。あの飛行機は帰ってきたんじゃなくて、また戦場に向かっているんです」(「サイゾー」2005年2月号より)と答えたこともありました。
そのような「戦争が、ある日突然始まり、ある日突然終わる世界」で、個人ができることのひとつは、やはり「愛する人(家族)と共に別の場所で生きる」ことなのでしょう。これは「戦争の起こる世界での恋愛映画」としては、型破りなようで、実は真っ当な選択であると思うのです。
また、「愛する人と空を飛んでいく」というのは、序盤の「空中散歩」のシーンの反復でもあります。この空中散歩の時、下に見える街では軍人たちが女性たちとダンスを踊っていたりもしたのですが、それとは「別の場所(空)」でソフィーとハウルは共に(手をつないで歩いて)いました。それをもう一度、しかも「キスをする」という愛情そのものの行動をもって提示するラストは、やはり恋愛映画としての、この上のない幸せに溢れたハッピーエンドなのです。
※本文中の宮崎駿監督の発言は『ジブリの教科書13 ハウルの動く城』より
<TEXT/雑食系映画ライター ヒナタカ>
【参考図書】
『ジブリの教科書13 ハウルの動く城』(文春ジブリ文庫)
「サイゾー」2005年2月号