「売春島」と呼ばれた離島が「ハートアイランド」になるまで。渡鹿野島の壮絶な歴史
予科練隊員の宿泊で「釣り船」が大盛況
太平洋戦争の終戦間近には、三重県津市にあった予科練(三重海軍航空隊の練習生)500名もの隊員たちが駐屯地からやってきて、渡鹿野島に泊まり込んだ。「予科練の隊員がやってきたのは的矢湾の岸壁に穴を掘り、潜水艇を隠しておくためだったと聞いたことはありますが、本当のところはわかりません」と、茶呑さんは語る。
「期間は1年足らずと短い期間でしたが、戦後になり、渡鹿野島の生活が忘れられない当時の隊員たちが旅行者として訪れるようになったのです。宿泊した客の多くが、翌日になると釣りを楽しみました。船をチャーターするので、1日1万円ほど。現在のお金に換算すると4万円以上で、4名で貸し切っても1人1万円ぐらいと高額な遊びでしたが、この釣り船は大流行りしました」
この頃、1949年生まれの茶呑さんはランドセルを背負った小学生。「宿泊客が旅館で酔っ払い、楽しそうに野球拳をする姿を自宅の2階から眺めていた」と言う。
真昼の酔っ払いや野球拳が当たり前
盛況な渡鹿野島に目を付けたのが、四国出身のO氏という女性を含む4人。四国からの出稼ぎ売春婦だったとされるO氏だが、店舗を借りてスナックを装った置屋を開店。島外からハイレベルな売春婦を次々と雇用し、売春ビジネスを確立している。島にはO氏のビジネスモデルを真似た置屋が乱立し、島外からは多くの男性客がやってきた。
「いまは人口約160人と少なく島内を歩く人の姿もまばらですが、Oさんたちがピークのときには宿泊客なども多く、歩くと肩がぶつかるほど。また、島外から来た女性たちが暮らすアパートも数棟建つなど、風俗業界は盛り上がりをみせました。そのため渡鹿野島には風俗業に携わる女性がたくさんいましたが、皆さん明るくて島民との会話を楽しむことも多く、島でおこなわれる運動会にも積極的に参加。島に暗い雰囲気などはなく、むしろ明るい印象でした」
今では傾き朽ちている2棟のアパートだが、当時は満室状態で多くの男性客が通い、一夜をともにすることもあったとか。渡船でしか行くことのできない特別な空間、そして美しい島の景観や艶やかな女性たち。渡鹿野島はまさに、男たちの桃源郷だったのかもしれない。