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織田信長と豊臣秀吉のオモテとウラ。“天才的な人物”と言われるワケは

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目的のためには大虐殺もいとわない大魔王だった

シン・日本史

目的のためには大虐殺もいとわない大魔王・織田信長

 改革者としての織田信長は、とにかく優秀な人物でした。しかし、彼は、天下統一という偉業を成し遂げるためならば、手段を択ばず、残酷なことも平気でやります。そのひとつが、一向宗の人々の大虐殺です。日本という国は、海に囲まれた島国なので、海外の国に比べると争いが少なく、歴史がヌルいという特徴があります。過去の歴史を見ても、大虐殺が行われた記録はほとんどありません。

 そんな平和な日本で、唯一と行ってもいいほどの大虐殺を行ったのが信長でした。特に信長が目の敵にしたのが、近畿、北陸、東海地方を中心に勢力を伸ばしていた一向宗の人々です。一向宗の人々は、当時の戦国大名の圧力に反対して、各地で反乱を起こします。この反乱を、一向一揆と呼びます。

 自分の命令に従わず、各地で一揆を起こす一向宗にブチ切れた信長は、一揆を起こした人々の大虐殺を始めます。この時彼が殺めた一向宗の人々の数は、現在の三重県桑名市にある伊勢長島で2万人。福井県の越前で1万2000人にものぼりました。

 当時の日本の人口は、約1200万人で、現在の日本の人口の約10分の1です。現在の人口比に置き換えるなら、それぞれの数を10倍した20万人、12万人というとてつもない数の人を殺したようなもの。この数字からも、信長の残虐ぶりがよくわかるのではないでしょうか。

 なお、信長が大虐殺を行う前に、徳川家康も阿波の国の一向一揆と戦っていますが、いくら制圧のためとはいえ、家康の場合は信長のような大虐殺は行っていません。「仏さまのために!」と命をかけて戦う宗教者を尊敬すらせず、「自分に逆らったから」という理由で問答無用で殺しまくった信長は、まさしく神も仏も恐れない「魔王」のような人物だったと言えるでしょう

実は東アジアの覇権を取ろうとしていた?

 織田信長が本能寺の変で明智光秀に殺害された後、日本の覇権を手にしたのが信長の家臣だった豊臣秀吉でした。日本を統一した後、秀吉が行ったのが「朝鮮出兵」です。しかし、これまで長い間、「なぜ秀吉は朝鮮に出兵したのか」は明らかになっていませんでした。

 その理由として、これまでにいくつかの説が浮上しています。まず、考えられたのが「秀吉がとにかく思い上がっていた」という説。これは、「日本を天下統一できたオレだから、中国だって統一できる」という甘っちょろいことを、秀吉が考えていたというものです。

 別の説として考えられていたのが、「部下に与える土地を確保したかった」というもの。天下が統一されて、日本が全部秀吉のものになってしまうと、新たに戦争して国内で土地を奪うことができません。すると、自分に仕えてくれた家来に報償として与える土地がなくなってしまいます。そこで、秀吉は、外国を侵略し、その土地を自分に使える家来たちに分け与えようと考えた可能性もあります。

東大教授がおしえる シン・日本史

東大教授がおしえる シン・日本史

史上初めて「日本をひとつにしよう」と考えた男・織田信長が、目的のためなら虐殺もいとわない魔王だった!古墳時代から昭和時代まで、40の項目のオモテとウラを1セットで学ぶことができる、子どもだけでなく親も興味津々の一冊

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