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酒でうっぷんを晴らす…幕末の英雄が迎えた「46歳のあっけない最期」

コラム

酒と女をこよなく愛する

日本酒

※イメージです

 このように容堂は新政府の重職を歴任するが、この間、人目をはばからず豪遊を続けた。みずからを「鯨海酔侯鯨(げいかいすいこう)」、「酔擁美人楼(すいようびじんろう)」と号しているように、容堂は酒をこよなく愛し、女と戯れるのを好んだ。新橋、柳橋、両国などの酒楼で毎日のように芸者とどんちゃん騒ぎをしていた。相手をするのは日向国(宮崎県)高鍋藩主の秋月種樹であった。土佐藩重臣の佐々木高行は明治二年(一八六九)三月八日の日記にその様子を記している。

 この日、佐々木は、午後三時に容堂の屋敷に立ち寄ると、容堂の側近から「老公が向島へ遊びに行くから供をしてほしい」と言われてしまう。佐々木は用事があるからと断るが、そこに容堂本人が現れ、「佐々木、よいところに来たな。これより船遊びをするから一緒に参れ」と言われ、仕方なくお供をすることになってしまう。

 舟中では、政府の高官に対する愚痴を言った。とにかく、新政府の大久保や岩倉ら実力者たちのやり方が面白くないのだ。容堂は「時勢を知らぬ愚物が多い世の中だ」と憤慨し、両国橋近くまで来たとき「俺は秋月のところへ寄る。お前たちは浮き世の景況を見るため、吉原へ行ってこい」と命じた。何とも気ままな殿様であった。

 明治二年正月十二日、容堂は仲の良い松平春嶽に宛てて次の書簡をしたためた。「殺風景之席上、殊ニ醜妓行酒等、足下嘸(さぞ)御迷惑と奉存候、加之(これにくわえ)僕狂態ヲ極メ、尚又帰途馬車ニテ馭越堂々朝廷之大臣ヲ遇スル礼儀ヲ忘却、其罪非軽(かるからず)弾台正之可也今日之御断承知仕候」。どうやら酒の席で容堂は狂態をみせ、帰途の馬車でも春嶽に無礼な言葉を吐いたらしい。それを謝している。

 明治二年五月、新政府は、役人の風紀を取り締まる弾正台を設けた。これに容堂は激しく反発し、西郷隆盛に対して、「もし豊臣秀吉の時代に弾正台などを設けたら、第一の家臣である盗賊出身の蜂須賀小六はどうなる。秀吉公自身も処罰されるだろう。まだ新政府も創業の時期、重箱の隅をつつくようなことはやめるべきだ。もし風紀を厳しく取り締まるというなら、俺の首を刎ねなくてはならなくなる」と放言した。

政府の顕官を辞して悠々自適の生活

 なお、弾正台ができてからも、容堂の豪遊はおさまらなかった。それどころかわざと、「大名といえども酒宴を開き、妓を聘し苦しからず候や」という伺書を政府に提出し、さらに、「今夜は友人と柳橋で会い、芸妓五人と遊興する」と届け出るなどして、その後も女をはべらし酒を飲み続けた。大人げない挑発的な行為であった。

 さすがにこれは目に余るということになり、弾正台のほうでも、ついに容堂の行為を糾弾することにした。明治二年七月、弾正台は、「従前遊蕩の儀は申すに及ばず、先般御布告後更に悔悟これなき条、全く差容しがたく候えども、御一新以来の功労を思召めされ、今度の儀は御取糺しあらせられざる御趣意を以て相応の御文言仰せつけらるべく候事」(平尾道雄著『人物叢書 新装版 山内容堂』)と、政府に対して糾弾伺書を提出したのである。

 すると容堂は、病気を理由に学校知事の職を辞してしまった。政府の顕官であることがアホらしくなったのだ。これにより、容堂は麝香間祗候(じゃこうのましこう)を命ぜられる。だが、翌月より、隅田川近くの浅草の橋場に隠棲してしまう。こうして以後、一切の官職から遠ざかり、悠々自適の生活を始めた。橋場邸には秋月のほか、旧家臣の佐々木高行や長州藩の木戸孝允などもときおり遊びに訪れている。また、容堂は旧家臣の土方久元のところなどへ出向くことはあっても、政治にかかわることはなくなった。

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