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酒でうっぷんを晴らす…幕末の英雄が迎えた「46歳のあっけない最期」

コラム

大物政治家としての容堂

河合敦

河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか 』(扶桑社文庫)

 慶応四年(一八六八)二月十五日、土佐藩に激震が走る。土佐藩は堺の警備をになっていたが、フランス船の水兵がいきなり上陸してきた。このため警備の土佐藩兵ともめ、言葉が通じなかったこともあり、戦闘に発展、フランス側に十余名の死傷者が出たのだ。公使のロッシュは激怒し、結局、この事件に関係した土佐藩士二十名を処刑することにした。堺の妙国寺において、公使の面前で処刑(切腹)がおこなわれたが、あまりの悲惨さに十一人目で刑の執行は中止され、残る九名は助命となった。

 事件の責任をとり、容堂は内国事務総裁を辞職した。この頃、ストレスのためか胸痛に悩まされた容堂は大坂で療養するようになった。この間の閏四月に政体書が交付され、新たな政治組織のなかで容堂は刑法官知事に任じられようとしたが、病を理由に辞退し、翌五月には議定も辞めた。

 藩内にはいまだ佐幕派の藩士も大勢いたが、もはや時勢が変わったので、容堂は同五月、藩内に告諭を発した。「伏見で暴挙を起こした慶喜は逆賊であり、王命に従って討伐の兵を出し、宸襟を安んじるのは当然のこと。この趣旨を体認せず、進む方向を迷い、異議を申し立てる者があれば厳罰に処す」といった厳しい内容だった。

 六月、容堂は病が癒えたようで、参内して明治天皇から天盃を賜わり、従二位権中納言に叙せられ、議定に復帰した。同年、江戸を東京と改め、明治天皇は東京へ移ることになったが、容堂は先発を命じられ、十月九日に江戸の土佐藩邸(鍛治屋橋)に移った。本当は芝口の仙台藩邸を下賜されたのだが、火事で焼けてしまったのだ。同年十二月には御三卿の田安屋敷を改めて賜わった。箱崎にある一万三千坪の広大な屋敷であった。

庶民に酒や菓子をふるまう粋な行為も

 容堂はさっそく湯殿や厠、茶室をつくり、さらに中国風の屋敷を移築した。また十仙堂と名付けた亭を新造した。この屋敷の庭園は見事だという噂が広がったこともあり、容堂は三日間、これを一般に開放し、続々と入ってくる庶民に酒や菓子をふるまうという粋な行為を見せた。

 容堂は、議定にくわえ議事体裁取調方総裁を拝命、さらに学校知事や制度寮総裁を兼ねたが、またすぐに辞職するということを繰り返した。ただ、容堂の役職の下には福岡孝弟や大木喬任、森有礼といった有能な実務官僚がおり、事務一切を取り仕切っていたので混乱はなかった。つまり、いずれもお飾りの役職だったわけだ。

 明治二年(一八六九)五月、三等官以上の高級官僚については、その任用が情実に流れたり、冗官(無駄な官職)が多いということもあり、大久保利通などの主張により、アメリカの制度を採用して入札(公選)によって決めることにした。

 公選決定の翌日、該当者が一斉に集められ、初めての高級官吏公選がおこなわれたが、その直前、容堂は「大臣といった高級官吏は、天皇のお眼鏡により仰せつけられるものである。それを投票で決めるなど、もってのほか。そんな児戯に等しきことは御免こうむりたい」と激怒し、席を蹴って退出してしまった。だが、選挙の結果、容堂は学校知事に再任されることになった。

殿様は「明治」をどう生きたのか

殿様は「明治」をどう生きたのか

外交官として世界各地を飛び回る元殿様や徳川宗家のその後など、14人の元殿様の知られざる生き様を、テレビなどでお馴染みの河合敦先生が紹介する

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