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コロナ貧困を黙殺する社会の闇。“普通の青年”DaiGo氏を変えたもの<森達也×藤田和恵対談>

ビジネス

オリンピックや総裁選に狂乱する社会の闇

コロナ貧困

「新型コロナ災害緊急アクション」の駆け付け支援。受け取ったSOSに車で駆け付けて、ハザードランプを灯す

藤田:無意識の差別や偏見、自己責任論が社会に根深く刻まれており、貧困に陥った当事者をさらに追い詰めています。体を壊しても生活保護の申請をためらったり、ホームレスになってなお「選択した僕の責任。僕がCEOなら労働者を切り捨てる企業の論理もわかる」と主張する若者もいました。

森:目をそらすことに慣れれば、それが前提になる。だからこそ、ジャーナリズムの大原則は「不可視を可視化する」ことだし、社会の死角を穿(うが)つためには、ジャーナリストは常に集団からはみだす個の視点を持たなければならない。でも、日本のジャーナリズムは組織の論理に染まりすぎてしまった。

藤田:私も新聞出身ですが、組織ではケンカをせず、和を大切にする記者が“よい記者”とされます。ジャーナリズムを担うメディアですら、異分子を排除する体質であることは問題です。貧困を取材する記者はたくさんいますが、継続して大きく取り上げられることは少ない。耳目をひく話題がメディアを席巻し、コロナ禍の貧困は存在しないかのごとく錯覚される。

ジャーナリズムを取り戻す必要がある

コロナ貧困

住まいのない生活保護申請者が放り込まれる悪質な「無料低額宿泊所(無低)」の粗末な食事(元入居者提供)

森:貧困問題は画的に地味になりますから。それよりもスキャンダルや政局という名のソープドラマ(昼メロ)のほうがウケる。情報の受け手と迎合するメディアのリテラシーの低下。

 鶏と卵の関係ではありますが、やはり、どこかでジャーナリズムを取り戻す必要があります。象徴的なのが、海外では珍しくない一人称の記事が、日本の組織では許容されづらいこと。専門家などの意見を掲載する場合は、記者が自分の意見を代弁させている場合が多い。

 なぜ、わざわざ代弁させるのか。メディア内部の人間が主観を表出すべきではないとの思い込みがあるからです。言葉にすれば中立公正で不偏不党。それは目標であって現実ではない。

 記事や映像はすべて主観であり解釈です。ある事象を切り取った時点で、発信者の主観が介在しており、客観はありえない。だから、世間を賑わすニュースや報道だけで、世界を知ったつもりになってはいけない。カメラをパンすれば、その周縁部に異なる世界が存在していることだって往々にしてあるのです。

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