超ブラック労働だった「奈良の大仏」建立。多数の死者に“大規模公害”も
修学旅行はどこに行かれましたか? 小、中、高、のいずれかで「京都・奈良・大阪に行きました」という人は多いのではないでしょうか。そして、奈良に行ったならば、十中八九、いや、100%の確率で対面することになるのが、奈良の大仏と鹿でしょう。
今回の記事では、歴史好き芸人・房野史典氏(@broadbouno)が超現代語訳で面白く、そしてNHK歴史探偵でおなじみ河合敦氏(@1ne15u)が最新歴史研究からアカデミックに洗いなおした『面白すぎる! 日本史の授業』(あさ出版)から「奈良の大仏」にまつわるエピソードを紹介します。
なぜあんなにも大きな大仏を造る必要があったのか? 意外と知らないその理由を解説していきます(以下、同書より一部編集のうえ抜粋)。
仏教推しの天皇が奈良の大仏を造った
「奈良の大仏」は、正式には東大寺盧舎那仏坐像といって、この仏像を造立したのが、聖武天皇です。しかし、そもそも聖武天皇は、なぜあんなに大きな大仏と東大寺を造ったんでしょう?
簡単に言ってしまえば、聖武天皇が、「超の付くほど仏教推しの天皇だったから」なんですね。聖武天皇の在位期間に世の中が荒れすぎて、「もう仏教に頼らなやってられん」となってしまったから、奈良の大仏を造った。
じゃあ一体、「何がどう荒れたのか?」というところをざっくりと解説していきましょう。まずはこちらをご覧ください。
藤原不比等→長屋王→ 藤原四子→橘諸兄
これは、奈良時代に天皇の下で政権を担当した人物の変遷で、長屋王のときからが聖武天皇の時代です。藤原鎌足の息子・藤原不比等が亡くなったあと、政権を担っていたのは皇族の長屋王でした。
ところが、聖武天皇の第一皇子・基王が生後1年に満たず夭逝すると、「基王の夭逝は長屋王の呪詛(呪い)によるものだ! 長屋王は国家を傾けようとしている!」との密告があり、藤原四子(藤原四兄弟)の1人・藤原宇合(うまかい)が長屋王の邸宅を包囲し、長屋王を自殺に追い込んでしまうんです。
次から次へと事件が巻き起こる
長屋王と政治的に対立していた藤原不比等の息子たち・藤原四子は、長屋王に謀反の罪を着せて政界からもこの世からも葬り去ってしまったんですね(長屋王の変)。
こうして、政権の担当者は藤原四子に移るのですが、なんとこのとき流行していた天然痘で、四兄弟が相次いで亡くなってしまいます。そうなるとまたもや政権担当者が移り変わり、バトンは皇族の橘諸兄が受け取ることに。藤原氏(不比等)→皇族(長屋王)→藤原氏(四子)→皇族(橘諸兄)ときてますから、今度もまた藤原さんが事件を起こしそうな雰囲気ですが、そうですね、バッチリ起こします。
前述の藤原宇合の長男・藤原広嗣が、橘諸兄に重用された吉備真備と玄昉の更迭(地位のある役目から降ろすこと)を求めて、九州の大宰府で反乱を起こすんです(藤原広嗣の乱)。