「成功したい」なら茨の道を行く。自分も周りも幸せにするオーダースーツSADA4代目社長の教え
フルオーダーのスーツが19,800円で買えると聞いたら、若手ビジネスパーソンはどう感じるだろうか。
「そんな虫のいい話はない」
「どうせ、オプションなどを追加したら倍くらいの金額になるのだろう」
と大半の人が思うだろう。19,800円と言えば、服飾評論家の落合正勝さんの表現を借りると、つるしのスーツ(量販店で販売される既製品のスーツ)のような価格だ。しかし、現実の話である。
そんな非現実な話を現実にした会社が、株式会社オーダースーツSADA(東京都千代田区)だ。同社の歴代経営者たちは、非現実を現実にするための努力を4代に渡って積み重ねてきた。
その歩みと志を知れば、SADAのオーダースーツに袖を通す際に、身の引き締まる思いを抱くはずだ。
その引き締まる感じは、スーツの仕立ての良さだけではあるまい。利他の精神に富んだ経営者の生きざまが着心地を通じて伝わってくるからではないだろうか。
・関連記事
>>>やりたいことは20代しか没頭できない。地球規模で課題解決を志す事業代表者が語る「心に火をともす」方法
そこで今回は、オーダースーツSADAの4代目社長・佐田展隆さんの成功哲学を聞いた。
インタビューは、同じ経営者として、外資系デンタルケア企業の日本法人Zenyum Japanで代表取締役社長を務める伊藤祐さんに担当してもらった(以下、伊藤祐さんの寄稿)
目次
自分も周りも幸せにできた状態を成功と呼ぶ
今回のインタビュー相手は、株式会社オーダースーツSADA(東京都千代田区)の4代目社長・佐田展隆氏だ。
一橋大学経済学部を卒業後、東レ株式会社(東京都中央区)で営業職を務め、その後の2003年(平成15年)に、3代目社長だった父親から「このままでは会社が危ない、助けてくれないか」というメッセージを受けたという。
佐田さんは、ご自身の著書でも書かれているように「迷ったら茨の道を行け」を座右の銘とするらしい。現に、茨の道に飛び込み、苦しみの末に、SADAの事業再生に成功してきた。
「逃げてもいいんだよ」
というメッセージの方が、今の世の中には受け入れられやすいと思う。
ただ、普通だったら逃げ出してしまう、逃げても誰も非難できない状況に置かれても、茨の道を選択し続け、道を切り開いてきた佐田社長さんほど、この言葉を口にして、説得力を持てる人はそうは居ない。
しかも、佐田さんの語る成功とは、人一倍稼いで、自分だけいい暮らしを享受する状態を意味しない。一人前になった上で、一人前になるまでに受けた恩を全て返し切り、さらにプラスにできるようになった状態を差す。
要するに、自分の幸せだけではない、周りも社会も幸せにできた状態を成功と呼ぶのだ。
・関連記事
>>>売上ゼロで始めた職人の後継ぎ探し支援。共感の輪で収益化を実現するまで
日本経済の元気がなくなったと言われて久しい。その落ち込んだ状況を打破するためには、僕たち一人一人が本当の意味で成功する(プラスを社会にもたらす)人間になる以外に道はないのだろう。
事業再生の裏側にあった壮絶なエピソードや価値観、信念をインタビューさせていただく中で心の底から感じた。
そのインタビューの様子を以下に紹介する。
社会人としてスタートを切り、一人前を目指す真っただ中の若手ビジネスパーソンにとって、本当の意味で目指すべきゴールの1つはここにある。ぜひ、最後までお読みいただきたい。
小さいころの夢は「社長になること」
―― 佐田社長、本日はどうぞよろしくお願い致します。
著書〈迷ったら茨の道を行け〉も事前に拝読しております。本日、お話を直接伺えること、大変楽しみにしておりました。
佐田:ありがとうございます。こちらこそよろしくお願いします。
―― まず、一橋大学を卒業されてから現在に至るまでのストーリーをお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。
佐田:はい。一橋大学経済学部を卒業した後、東レ株式会社(東京都中央区)に入社しました。
入社してから5年ほど経ったタイミングで、SADAの社長(当時)だった私の父から「会社が今、とても大変な状況だ。SADAに入社して助けてほしい」という声が掛かりました。
父は、3代目の経営者です。私も3人兄弟の長男でしたので「いずれ社長になれるような器にならなければ」という気持ちが昔からありました。
―― 経営者一族に生まれたからこそのマインドですね。
佐田:そうですね。小さいころから、将来の夢は「社長になること」でした。
「3人の中から誰か1人を後継者にする」と父も公言していましたし、選ばれるために何をすればいいか、子どものころから考える機会がたくさんありました。
その父から「助けてほしい」と頭を下げられてしまったら断る道はなかったですね。
その声が掛かったタイミングが今から約20年前、2003年(平成15年)の年末でした。
2003年(平成15年)は、百貨店のそごうさんが破綻(はたん)してしまったタイミングです。
父の代になってから、そごうさんと取引させてもらっていて、フルオーダースーツのほとんどをSADAでつくらせてもらっていたので、SADAの売上の半分近くはそごうさんでした。
―― 売上の半分近くを占めていたその取引先が破綻(はたん)……。背筋が凍る状況ですね。
佐田:本当にそうなのです。それ以外にも、マイカル(小売事業者)さんや長崎屋(衣料品を主に扱うスーパーマーケットチェーン)さんなども主要なお客さまでした。
そのような企業も入れると、バブル崩壊からの長期的な経済の停滞で取引先が半分以上なくなってしまったのです。
普通だったら連鎖倒産レベルなのですが、何が何でも生き残るという執念で、すさまじい借り入れをしながら、首の皮一枚をつないだ状態で会社を父は経営していました。
そんな状況の時に「後継者を明確にし、連帯保証人にしてください」と金融機関から言われたようなのです。
そのリクエストを父は飲み「助けてほしい」と頭を私に下げました。
―― 莫大な額の連帯保証人になるとは生半可な覚悟ではできないと思いますが、ちゅうちょはなかったのでしょうか?
佐田:調べてみると、時間の問題でSADAはつぶれてしまうと分かりました。
ただ、父は腹が決まっていて、従業員の雇用を守るためなら何でもするという覚悟があったのです。
当時の私は、その文脈が把握しきれておらず正直、この件についてはずいぶん父ともやり合いました。親子げんかもしました。
ただ、ある程度けんかした後で、父の覚悟を理解しました。「(従業員の雇用を守るなら)息子の人生ぐらい一緒に賭けよう」という心づもりが父にはあったんですね。
そこで私は、一花咲かせてみようと決意し、全借り入れの連帯保証人になり、家業の会社に戻りました。
―― 佐田社長ももちろんですが、先代のお父さまもすさまじい覚悟ですね。
「子どもは、自分よりも大事」
「何があっても子どもだけは守ろう」
と思う親が大半だと思います。その子どもの人生も賭けてしまうとは、そうそうできないですよね。
佐田:ただ、私自身も、このまま何もせず破綻(はたん)させてしまう状況が悔しかったのです。先代だった祖父にも顔向けできません。
何か勝負できることはないのか、父と一緒に必死に動き続ける日々が始まりました。
「どう考えてもおかしい」という状況はそこかしこにあった
―― 佐田社長は当時、営業経験のみで経営経験はなかったとご著書にあります。どのようなスタイルでSADAの改革に取り組まれたのでしょうか。
佐田:おっしゃるとおり、経営のスキルや知見はほとんどありませんでした。
とはいえ「どう考えてもおかしい」という状況はそこかしこにあったので、それらを解決するためにいろいろやらせてもらいました。
―― 状況はかなり厳しいですが、そういう時こそ、改善できることはたくさんありますよね。
佐田:まさに、おっしゃるとおりです。昔から私は「思い付いたことがあったら何でもやる」という精神の持ち主でしたし、父は父で私に、大きな権限を与えてくれるようになりました。
今まで父は「現場は現場リーダーに任せる」というスタイルだったので、そこまで詳細を把握しきれていなかったのです。
おかしいことが何かあるとすぐ現地まで飛んで行っていた私に対し、
「現場の人の声やお客さまの声を全部拾い、まとめてくれる。大したもんだ」
と父も言ってくれました。もちろん、存分に改革を進めたので「もう我慢ならん!」と辞めた人もずいぶん居ましたが、結果として業績はV字回復し、売上としては微増ながら、営業利益1億円を翌年にあげられました。
―― お父さまにとって佐田社長は、頼りになる右腕になったのですね。
佐田:とはいえ、今までの莫大な借金の金利を返す必要があったり、壊れていた設備に手を入れる必要があったりで、1億程度の利益はすぐに飛んでいってしまいます。借入額も減らせません。
加えて、支払いを待ってくださっていた仕入れ先の方々から、
「SADAは最近、もうかっているようだから、未払いだった分を払ってほしい」
と要望されるようになりました。
「払えないなら、もう今後、取引できません」
という宣言をされたり。
―― 先代のお父さまや佐田社長としては、可能なかぎりの策はその時点で打たれていたと思いますが、とても厳しい状況ですね。
佐田:本当にそうです。私も正直、一時は諦めかけました。
当時私は、すでに社長に就任していたので毎日、会長となった父や、支援してくださった金融機関の方に助力頂きながら、仕入れ先の方々に説明を尽くし、土下座ばかりしていました。
加えて、社員の皆さんへの給料問題もありました。「未払い分を払え」「労働債務は最優先のはずだ」というリクエストも労働組合に受けていたのです。
「せっかくここまでやったんだから頑張ろうや」と父に励まされたり「社長、諦めないでくださいよ」と取引先の金融機関の担当者からも応援の言葉を頂いたりしましたが、いくら利益を出しても借金は減らず、先が見えませんでした。
しかし、転機となる提案が金融機関からありました。担当の方との話の中で「債権放棄という手もあります」という提案を頂いたのです。
バブル崩壊後、大企業の事業再生がひと段落した段階で、その支援の輪が中小企業にも広がってきていました。
―― 財務状況を圧迫している借入金が少なくなれば、今後の見通しも明るくなりそうですね。簡単に了承いただける話ではなさそうですが……。
佐田:おっしゃるとおり審査部は非常に厳しい、アリの穴1つも許さない方々です。ですが「これが最後のチャンス」と私は考え、金融機関の審査部とのやり取りに挑みました。
この会社は日本に残さなければいけない
―― 非常に長い時間、激しい議論が戦わされたのだと思いますが、自分の立場に置き換えて考えると、圧倒的なチャレンジ過ぎて足がすくみそうです。
佐田:頭も体も心もフル動員している感じでしたね。
父も、債権が放棄された場合の再建プランを一緒につくってくれて、審査部もおおむね納得するようなプランを一度は作成できたのですが終盤で、話が振り出しに戻り、紛糾してしまう展開もありました。
借り入れを半額放棄する形でおおむね話がまとまりかけた段階で、中小企業再生支援協議会という機関に、計画の実現性が間違いないというお墨付きをもらってくださいというリクエストを審査部から受けました。
そこの協議会は、デューデリジェンス(徹底的な調査)が有名で、SADAの粉飾や簿外債務がその調査の中で明るみに出てしまったのです。
通りかけていた計画が砂上の楼閣だと分かり、半額放棄ではなく、85%放棄しないと駄目という話になり、金融機関もさすがに飲めないとなりました。
―― 85%放棄……。貸し手からすると当然飲めない数字ですね。
佐田:「6割放棄ぐらいでなんとかなるのではないか」という話をメインバンクから持ち掛けていただいたりもしたのですが、フラットに考えると支援協議会の方が正しい。
なので、支援協議会にご指摘いただいたポイントを容れた計画で進める形にしました。
支援協議会のマネージャーの方は真摯(しんし)にサポートしてくださり、「この会社は絶対に日本に残さなければいけない会社なんです!」と金融機関に粘り強く交渉もしてくださいました。
最後は、メインバンクも折れてくださって、85%放棄に同意してくださいました。メインの金融機関が納得してくださったので、他の金融機関への話も通しやすくなり、他の金融機関も渋々ながらご賛同いただきました。
―― すごい……。
佐田:ただし、交換条件として佐田家は自己破産する必要がありました。父は、すでに覚悟が決まっており、自己破産しました。
また、SADAは、伊藤忠商事がつくったファンドに譲渡される形になりました。
私自身も、個人デューデリジェンスをされたのですが、株も資産も何も持っていなかったので「自己破産する必要はないよね」という結論になり、会社を離れる形になりました。
その後、ITベンチャー、コンサルティング会社などを経由し、SADAの社長にまたなって、今に至るという流れです。
今まで受けた恩よりプラスの価値を返す
―― SADAには、非常に明確な差別化ポイントがあります。
フルオーダーのスーツが19,800円で買えるという事実は、エンドユーザーから考えると素晴らしい話ですよね。
北京工場での人件費抑制、最新技術での大量生産技術など、さまざまな経営努力で実現していると考えてよろしいでしょうか。
佐田:そうですね。さまざまな施策を組み合わせ、高品質なフルオーダースーツを19,800円という価格で提供させていただいています。
例えば、大きなポイントとして工場直販が挙げられます。
ディーラーさんや商社さんを挟まずに、エンドユーザーさんにこの規模で直接届けられる会社はほとんどありません。マージンが取られない分だけお客さまに還元できます。
フルオーダーを海外縫製でこの規模でやれている会社もないので、原材料も輸送費も規模の経済が働き、結構なディスカウントを取引で頂いています。
また、バブル崩壊後に非常に大変な状況になり、なんとかコストを下げなければならない状況で、原価低減施策を必死に打ち続け、命懸けで磨き上げてきたことも大きな強みになっています。
―― きちんとした仕立てのスーツを着ると、周りの人もちゃんと対応してくれますよね。若い世代のビジネスパーソンにこそ試してもらいたい価値観です。
bizSPA!フレッシュのメイン読者である20代のビジネスパーソンもまさにその世代なので。
佐田:おっしゃるとおりです。
「SADAさんでスーツをつくってから周りの扱いが変わり、人生そのものも変わった」
とおっしゃってくださるお客さまもいらっしゃいます。
そういう人たちを1人でも増やすために、高品質低価格のフルオーダースーツをつくり続けていきたいと思っております。
―― インタビューのお時間も、残念ながらそろそろ迫ってきました。そこで最後に1つ、質問させていただけないでしょうか。
佐田社長の座右の銘「迷ったら茨の道を行け」には非常に私も共感しております。
私自身も経営者ですので、佐田社長ほどの凄絶な経験はしていないものの、しんどいこと・辛いことは日々、たくさんあります。「迷ったら茨の道を行け」を多少なりとも実践してこられたかもしれません。とはいえ正直、
「もう少し楽な道に進めば良かった」
と思う瞬間も、恥ずかしながら私自身、少なからずあります。最近の若い方々も、
「とりあえずツラいこと、しんどいことはイヤだ」
「楽な方に行きたいな」
などと、茨じゃない方を選ぶ傾向が強まっているように思います。あらゆる場面で過剰さを回避すると言えばいいでしょうか。
そういう価値観を持つ若い人たちにも「迷ったら茨の道を行け」と伝えたいとお感じになられますか? その場合、どのように伝えられるでしょうか。
佐田:そうですね。「自分も周りも幸せにすることが人の目指すところ」と私は考えます。それをできた人が「成功者」だと思っています。
しかも、その「周り」をなるべく広くとらえたい、自分と関わるなるべく多くの人が幸せになってほしいと考えます。
周りを幸せにする力を持つためには、さまざまな経験を自分自身が積み上げ、学び続ける必要があります。だからこそ常に「茨の道を行く」必要があるのだと私は思っています。
「能力的に高まっていかなくてもいい」
「幸福感もそこそこあるので別にいらないです」
という人はもちろん、茨の道をわざわざ選ぶ必要はないのかもしれません。しかし、両親や祖父からは常々、
「一人前とは、自分で稼いで自分で食っていくことではない。お前は、よちよち歩きしている時に恩しかもらっていない。今になって『一人前です』と言われても『俺らから受けた恩はいつ返してくれるんや』と思う」
と言われていました。その意味で、誰もが恩を受けて育ってきたはずなのです。
今まで受けてきた恩を全て返し切り、受けた恩よりもプラスの多くの価値を返してやっと一人前になれるのだと思います。
これは、一般的に受け入れてもらえる話なのかどうか分かりませんが、短期的に見て楽な道ばかりを選ぶ人たちが増えれば、その社会は没落していくのではないでしょうか。
差し引きプラスにできる人には少なくとも「迷ったら茨の道を行く」という選択を取り続け、素晴らしい社会づくりに貢献してほしいと願っていますし、差し引きプラスにできる人そのものがたくさん居る社会づくりに私自身も貢献できればと思っています。
―― 茨の道を選択し続け、道を切り開いてきた佐田社長だからこそ、説得力を持つのだと感じました。bizSPA!フレッシュの若い読者にも届けばと願います。
本当の意味で成功する(プラスを社会にもたらす)人間に僕たち一人一人がなる以外に、日本を元気にする道はないのだろうと私自身も思いました。今日は本当に、ありがとうございました。
[取材・文/伊藤祐、写真/渡辺昌彦]