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“逆輸入俳優”大谷亮平「20代の僕はまだ何もしていなかった」

暮らし

――そこが富男と通じる部分だったと。

大谷:そうですね。富男は闇金屋として人を見ているわけですが、でもしっかりと見てそこで判断をしてどう動いていくかという点は、僕と富男との共通点でしたし、すごくしっくりきました。

 それに、僕はこういう顔つきなので、黙っていると怖がられることがあるんですが、富男は無理に笑顔を作ったり爽やかでいる必要のない人物だったので、無理がありませんでした。

20代で言葉も全く話せない韓国の芸能界へ

大谷亮平

――韓国のお話が出ましたが、大谷さんは、日本でモデルを開始してから韓国に渡り、モデルと、そして俳優業をスタートして活躍されてきました。外国に行き、しかも俳優という新しい仕事を始めることに、不安はなかったのでしょうか。

大谷:なかったです。正直、ゼロに近いです。僕はずっとバレーボールをやっていて、その世界しか知らない人間でした。それがひょんなところからモデルをちょこっとやって、韓国で仕事をすることになりました。

 バレーボールは好きでしたが、プロにはなれないと思って諦めたんです。小学校からずっとスパルタで休みなくやってきたので、それ以外の世界がとても新しく感じて、ワクワクしました。

――韓国語は話せなかったんですよね?

大谷:はい。

――あちらの大学で勉強をされたとか。

大谷:そうですね。大学も行きましたし、事務所から決められていたので、午前中は授業を受けて、午後は個人の先生にがっつり付いてもらいました。

――それもワクワクの延長だったんですか?

大谷:僕は勉強をあまりしてきていない人間なので、語学に関しては最初は辛かったですよ。授業にも慣れてないし。

――でもマスターされた。

大谷:マスターしますよ。最初はゼロなんです。上達が見られないときは辛かったですけど、友達に「6か月頑張ってみて。6か月くらいから、ちょっと聞こえてくるから」と言われたんです。

「ゼロはゼロじゃん」と思ってたんですけど、「お!」っと思うときがあって、そこからまた波があったりを繰り返しつつ、いつの間にか喋れるようになっていきました。みんなそうですよ。喋れるようになります。

「失敗や恥を恐れずいろいろしておいたほうがいい」

大谷亮平

――努力もして韓国で活躍をされ、今度は日本へ戻られました。その決意もすんなりですか?

大谷:はい。僕、いつも縁なんですよ。僕のルーツは高知で、高知というと、坂本龍馬が浮かびますが、僕の場合は、自分で切り開いていけばいくほど、よくない方向に行く人間なんです(笑)。自発的に事を起こそうとすると基本的にうまくいかない。

――でも縁があってということは、出会いに対するアンテナ、キャッチはうまいとか。

大谷:その直感はすごく持っていると思います。人との縁をキャッチできるのは、数少ない僕の才能ですね(笑)。日本に来るタイミングにしてもそうです。何年かに1回は、どこかの事務所から声がかかることもあったんです。

 でも、何か違う感じがあって。このタイミングで日本に戻った。結果論ですが、今が一番よかったと思います。あのとき日本に戻っていたらということを考えてみても、やはり今だったと思いますね。

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