人気コンビ・三四郎「“変な漫才”扱いでテレビに出られない」下積み時代の苦労
テレビのオーディションに受からない…。最初の挫折
――お二人でコンビ活動を再スタートされたわけですが、それからの芸人人生のなかで経験した「挫折」ってありますか?
小宮:ライブでは1位とか取れるようになっていたんですけど、テレビのオーディションだと全然ウケないというか、「わかってくれないなぁ」っていう時期がすごく長くて。一番の挫折はそこですかね。
相田:マセキ(三四郎が所属するマセキ芸能社)だと僕らって飛び道具というか、“変な漫才”みたいな扱いをされていて。だからレッドカーペット(フジテレビ系『爆笑レッドカーペット』)みたいな短い時間でやるネタもあまり得意じゃなくて。ハマる番組がなかったんですよね。
事務所には「あらびき団(※)だろ! お前らは」と言われたんですけど、そこでもハマらなくて。「いったいどこならハマるんだよ俺たちは!」っていう時代はありましたね。
※TBS系列で2007年から2011年まで放送されていたお笑いネタ番組。その名の通り荒削りかつシュールなネタを披露する出演者が多い。藤井隆と東野幸治がMCを務め、番組開始当初は「エンタの神様」出演者養成番組と紹介されていた。
――その挫折をどう乗り越えたんですか?
相田:フジテレビの『ロケットライブ』っていう、ネタ5分とロケを2組分放送してくれる30分くらいの深夜番組があって、そのオーディションに受かったことがきっかけですかね。オーディションは持ち時間10分くらいと指定されていたんですが、同じ事務所の後輩のジグザグジギーっていうコンビが20分くらいやってたんですよ。もう、絶対に受かってんじゃん、と。
僕らもそのくらいやらなきゃいけないんだと思って、がむしゃらにやりました。面接官の人が「じゃあそろそろ……」と止めようとしても「それでですね」みたいな。気づいたら40分くらいしゃべり続けてました。それでなんとか番組に出させてもらうことができたんです。そこから、徐々にテレビの仕事が増えてきた感じはありますね。
“バイト漬け”より芸人とのコミュニケーション
――なるほど。お二人は「M-1グランプリ」や「THE MANZAI」のような大きな賞レースでは正直、これといった結果を残されてこなかったですよね。それでもテレビにここまで引っ張りだこになっている理由ってなんだと思いますか?
小宮:最初の頃に『ゴットタン』だったり『アメト――ク!』だとか、影響力のある番組に出させてもらったのは大きいと思いますね。そこで一つ一つ結果を残すように意識してきました。賞レースで優勝してテレビに出まくったりして視聴者や関係者に「一周回った」と思われていないのが逆に良いのかもしれないです。
相田:関係者が見ている番組に一番最初に出られたっていうのはありますね。あとはまあ、小宮の歯が欠けたのがよかったかもしれないですね。車椅子で漫才するやつなんていないじゃないですか。
――『ゴットタン』初出演で小宮さんが車椅子に乗って登場したのは“M-1優勝”くらいのインパクトがあったかもしれませんね。
相田:小宮が怪我をした日、深夜にマネージャーから鬼電がかかってきてたんですよ。「小宮さんが酔っ払ってこけて、足も折れて、歯もかけてます」と。2日後に『ゴットタン』の収録があるのにそれも出られないかもしれないと言われて、俺は「いやいや、そんなん出れるでしょ!」と。だってそのとき一番出たかった番組が『ゴットタン』ですから。それに、一緒にライブで頑張ってきたような芸人たちがアンケートで僕らを選んでくれて出演が決まったので、「出ないわけにはいかないでしょ」と。
当日『ゴットタン』の控え室に現れた小宮を見たら、車椅子乗せられて松葉杖抱えてギブスでギッチギチになってて、「こりゃ、やべぇわ」と。でもそんな状態だからこそ小宮も他の先輩方にガツガツ喰ってかかれたっていうのはあると思いますし、それで劇団ひとりさんが「ムカつくけど、なんか売れそうだな」って言ってくれたんで結果的には良い流れに繋がったなぁと思ってます。
――テレビに出はじめたころに人気のお笑い番組に立て続けに出られたのは、やはりそれまでの努力や苦労があったからでは?
小宮:オーディションに全然受からなかった時期は月に20本以上、自分たちでお金を払ってフリーのお笑いライブに出るようにしていました。あとは若手芸人によくあるような“バイト漬け”になったりしないでいろんな芸人に会ったり、オーディションの面接官とコミュニケーションをとるようにしたり、関係者の知り合いを増やすっていうのは心がけてましたね。
<取材・文/鴨居理子 撮影/杉原洋平>