超ブラック労働だった「奈良の大仏」建立。多数の死者に“大規模公害”も
大仏が未完成のまま開眼供養?
天平勝宝4(752)年4月9日、東大寺大仏殿において「大仏開眼供養会」がおこなわれました。大仏に眼を描くことで魂を入れて完成させる儀式です。でも、大仏はまだ完成しておらず、金メッキもあまり施されていなかったと言います。にもかかわらず開眼供養を急いだのは、聖武上皇が「自分が生きているうちに実施したい」と考えたからです。
実は聖武上皇は体調が悪く、いつ没してもおかしくありませんでした。病気がちになり、天平感宝元(749)年に出家して新薬師寺を行在所(屋敷)とし、娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に皇位を譲っています。
ただ、譲位してからもたびたび造仏事業を見学に訪れる執心ぶりで、時には自らも作業に加わったと伝えられています。おそらく聖武上皇は、この事業に国の平和という大きな望みをたくしていたのでしょう。
黒目を入れたのはインド人
大仏開眼供養会で、大仏に墨で黒目を入れたのは聖武上皇ではなく、驚くことにインド人でした。菩提僊那という僧です。実はこの儀式には、インド人のみならず、中国やベトナム出身の高僧たちも多数参列していたのです。まさに国家的大イベントだったわけです。
こうして無事、大仏開眼供養会が終わり、それから4年後、聖武上皇は56歳の生涯を閉じました。おそらく本人は本望だったかもしれませんが、仏教興隆事業の陰で、重税や強制労働を課された多くの庶民は、塗炭の苦しみを味わうことになったのです。
しかも大仏が完成してからも平和になるどころか、政変が続きます。聖武上皇が亡くなるとすぐに皇太子の道祖王(ふなどおう)が失脚、翌年、権力者だった橘諸兄の子・奈良麻呂とその一派が謀反の疑いで拷問されて殺され、数年後には奈良麻呂の乱を制した藤原仲麻呂が恵美押勝の乱を起こして敗死、乱後、権力を握った道鏡も数年後に失脚しました。
蝦夷(えみし)との戦いも泥沼化状態(三十八年戦争)に陥っています。そういった意味では、聖武天皇(上皇)の願いは成就しなかったわけです。
<TEXT/河合敦 房野史典>