超ブラック労働だった「奈良の大仏」建立。多数の死者に“大規模公害”も
5年のうちに4度も都を変える!
もしも、あなたが聖武天皇の立場だったらどうでしょう。最愛の息子を亡くし、政治のトップが自殺するという事件が起こり、それを実行した四兄弟も伝染病で亡くなったうえに、当然その伝染病が世の中的にも大流行……。一体自分の周りでは何が起きているんだと感じたところへ、ダメ押しと言わんばかりのデッケー反乱。おまけにこのときは飢饉です。平静を保っているほうが異常じゃないでしょうか。
止まない政争、伝染病、反乱、飢饉。さまざまな災厄が重なった聖武天皇は、「都を移すぞ!」という決断を下します。
政治の安定を図るためなのか、疫病や反乱から逃れるためなのか。実は、決定的な理由はハッキリとわかっていないのですが、聖武天皇は遷都を決行。ただし、一度きりのお引越しじゃありません。5年の間に4度も都を変えます。
平城京→恭仁京→難波宮→紫香楽宮→平城京
近畿地方の中をグルグルグルグルしたあと、最後はもとの平城京。朝廷の中の1人くらいは思ったでしょう。「いや戻るんかい」と。そして、聖武天皇はこの遷都と並行して、「この荒れた世の中を、仏教の力で護っていくぞ!」という政策を打ち出すんです。
聖武天皇の「鎮護国家思想」とは
そうして出された仏教政策の1発目が国分寺建立の詔(741年)で、各国の国府が置かれている地に、国分寺と国分尼寺を1つずつ建てなさいと命じたんですね(光明皇后のすすめがあったとも言われています)。東大寺は全国の国分寺の総本山、総国分寺です。
そこから2年後には、大仏造立の詔(743年)が発布され、この詔勅によって造られたのが、ご存じ「奈良の大仏」だったんです。
当初、大仏は紫香楽宮に造られる予定だったのですが、事業は難航。平城京に都が戻ると造立が再開され、民衆から人気のあった行基の協力もあり、752年、孝謙天皇の代になって開眼供養会がおこなわれたのでした(聖武天皇は譲位して聖武太上天皇となっています)。
世の中の乱れから「仏教の力で国を安定させ護っていく」という「鎮護国家思想」にたどり着いた聖武天皇。2つの詔では、自らの政治を反省して民衆の幸福を願ったり、造立を理由に民から無理な税を取り立てないよう役人に説いていたりと、文書から仁政を心掛ける真心が伝わってきます。
ですが、大きな事業には民衆へのシワ寄せがつきもの。行基の力を借りたのも、裏を返せば、それまでは人々から満足な支持を得ることができていなかったと言えるわけです。