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16歳の中井卓大、レアルと契約へ――早熟Jリーガーたちの現在

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礒貝洋光(ガンバ大阪 浦和レッズ)

礒貝洋光

※画像は公式サイトより

 Jリーグ創設時より「天才」の名を欲しいままにした礒貝洋光。ガンバ大阪の背番号10を背負い、フリーキック、スルーパスを駆使し、若くしてJリーグのスター候補としての素質を発揮する。プロ入り前より日本代表にも選出されており、遠くない未来に代表の中心選手になり得る潜在能力を備えていた。

 1995年1月、キング・ファド杯への日本代表に学生時代以来の選出、2試合に出場した。ナイジェリア、アルゼンチンと対戦したこの大会では当時の大黒柱であるラモス瑠偉に代わっての出場を果たすなど、司令塔のポジションでプレー。いずれも大敗を喫するも、初の国際Aマッチの舞台でピッチに立った(学生時代の代表戦は欧州クラブとの対戦のみ)。

 だが、所属のガンバの低迷や自身の怪我もあり、プロ入りから5年目以降はその輝きが失われていく。日本代表招集の機会も訪れず、現役最後の2年間は浦和レッズでプレー。学生時、Jリーグ全10クラブから入団のオファーを受けた「最高の才能」も、日本がW杯初出場を実現させた1998年、シーズン終了後、29歳でひっそりと現役生活を終えた。

 その後、プロゴルファーに転向した時期もあったが、現在は気が向けば地元のサッカースクールで指導したり、建築関係の手伝いをするなどしている。また自宅を持たず車中泊を続ける独特な「車上ロハス生活」がテレビにも取り上げられた。

菊原志郎(ヴェルディ川崎 浦和レッズなど)

サッカー

※画像はイメージです

 1993年、鮮やかなグリーンのユニフォームがピッチで躍動していたJリーグ創成期。ヴェルディ川崎(当時)に所属していた菊原志郎は、すでに出場機会を得られずにいた。「ボールを足で投げる」と表現されるほど高いテクニックの持ち主の全盛期はJ発足以前、日本リーグ(JSL)時代だった。

 1986年、当時最年少記録となる16歳7か月でのJSLデビューを果たす。「ヨミウリ」という呼称で、日本のサッカーシーンを席巻していた個性派集団において、菊原は10代の頃より卓越した技術でサッカーファンを魅了し続けた。日本代表の経験もあり、1990年、アジア勢を相手に5試合に出場している。3試合で先発のピッチに立っており、21歳にして代表の中盤を担う存在としての期待が大きかった。

 1994年、浦和レッズ移籍を経て、2年後に再びヴェルディへ復帰、その年に引退。童顔のテクニシャンは最後まで「ヨミウリの天才少年」だった。その後は、2018年より中国の広州富力のアカデミーで指導を行なっている。

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