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雑誌全盛期を駆け抜けた「風俗ライター」の意外な半生

コラム

「あの音楽イベント」をきっかけにライターへ

 パルコ退社後は半年ぐらいブラブラしていたが、会社員時代のつながりで、イベント運営を手伝うことに。

 1984年夏に日比谷野外音楽堂で行われた「アトミック・カフェ・ミュージックフェスティバル’84」もそのひとつ。米ソ冷戦の真っ只中にあった当時、反核をテーマにした米国ドキュメンタリー映画『アトミック・カフェ』が世界を席巻。

 松沢氏は渋谷パルコでこの映画の上映会を実施したため、その縁で反核をテーマにした本フェスティバルの専従スタッフに。このコンサートは、尾崎豊が客席にダイブして左足を骨折したことでも知られている。

「このコンサートの事務局は、音楽プロモーターSMASH(スマッシュ)の事務所に間借りしていて、そこにしばらく通っていたんだけど、コンサートが終わったら働かなきゃいけない。そしたら、スマッシュの日高(正博)代表が、『だったらうちで働くか』と言ってくれた」

ぴあでは、「役員の経費で雇われていた(笑)」

松沢呉一

松沢呉一の著書『ぐろぐろ』『闇の女たち』など

 こうしてスマッシュに入社。現在はフジロックで知られるが、当時のスマッシュは欧米のマニアックなバンドを次々と日本に招聘(しょうへい)していた。

「コンサート情報を雑誌で紹介してもらおうと雑誌に情報を持ち込むんだけど、バンドがマニアック過ぎて記事を書ける人がいない(笑)。編集者から『原稿を用意してくれたら掲載できる』と言われて文章を書き始めたのが、ライターとなったきっかけですね。ノーギャラだから、その時は自分がライターだという自覚はなくて、あくまでコンサートの宣伝のために書いていただけなんです」

 当時のスマッシュはあまりに激務だったため、知り合いのツテを頼って20代後半で「ぴあ」に転職。

「と言っても、契約社員でもバイトでもなく、役員の経費で雇われていた(笑)」と松沢氏。真偽は不明だが、おおらかな時代だったのだろう。間もなく、その役員が独立して会社を立ち上げるというのでついて行った。

未開拓の分野を探し、風俗ライターへ

 その会社は映画のプロモーションなどを行っており、映画の予告編を収録したVHSのビデオテープを街頭で無料配布するなど、話題を作っていく。会社員として働きながら、個人としても伝説のお色気深夜番組『11PM(イレブン・ピーエム)』に出演し、映画の話題作を紹介したり、カルチャー情報誌『シティ・ロード』で記事を書くなど、フリーランス的な仕事を並行して続けた。

 だが、30歳のときに「会社員としての仕事か、フリーランスの仕事か、どちらかひとつにしてほしい」と言われ退社。時代はバブルの絶頂期で、ゲームや音楽といったサブカルチャーに関する記事を中心に、原稿依頼は尽きずあった。

「この段階でもまだライターという自覚は薄くて、ラジオやテレビの仕事をしたり、音楽関係の仕事をしたりもしていたし、編集の仕事もやっていたんですけど、結局、ライターの仕事が多くなって、自分でもこれが向いているなと思った。だって、ライターは1人でできるじゃないですか。編集者との共同作業でもあるけれど、書くこと自体はソロ活動でした」

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