ノンキャリア官僚だった「戦後最も偉大な総理大臣」が過ごした“ドサ回りの日々”
当時の不治の病にかかって休職することに
そんな昭和五(一九三〇)年九月、池田は落葉状天疱瘡という難病にかかります。体中から膿が出てかゆくて、かけばかくほど余計に苦しむという地獄の苦しみの病気です。当時は治療法がなく不治の病でした。ただでさえ出世が遅れているのに、休職せざるを得なくなります。
しかも、昭和七(一九三二)年三月、妻直子が看病疲れで死んでしまいます。まもなく、池田は大蔵省を退職し、広島の実家で療養生活を送ります。
時は昭和初期、日本も世界も危機的な時代を迎えています。
昭和四(一九二九)年、浜口雄幸内閣の井上準之助蔵相が金解禁(金本位制への復帰)を断行し、世界恐慌が押し寄せています。昭和五年にはロンドン海軍軍縮会議で統帥権干犯問題が起こり日本の右傾化が危惧される中、昭和六年に満洲事変の勃発、昭和七年に五・一五事件によって憲政の常道が終焉。さらに翌八年には国際連盟を脱退しようという時期です。
激動の時代に地方で実力をつけていく
激動の歴史のただ中にありながら、日本や世界の運命とはまったく関わりを持てなかったのが、当時の池田勇人です。
もっとも、悪いことばかりではありませんでした。ちょうど五・一五事件で政党内閣が終焉を迎えた頃、遠縁の大貫満枝が看病に来てくれました。後に池田が再婚する女性との出会いです。満枝の献身的な介護の甲斐があってか、病状が回復に向かいます。
母うめは「勇人の病気が治ったら必ずお礼詣りに参上します」と願をかけていたので、回復の兆しが見えた勇人を連れて伊予大島の島四国(四国八十八ヶ所巡りの小型版)巡礼の旅に出ます(『人間 池田勇人』五八頁)。その後も病状は徐々によくなり、ついには全快します。
病気から立ち直った池田は、昭和九(一九三四)年の春に日立製作所への就職が内定します。このときも大蔵省入省にあたって推薦してくれた望月圭介を頼っています。