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コロナ禍の今、駄作と言われた『ゲド戦記』が再評価されるべき4つの理由

暮らし

3:均衡の崩れた世界でできること

ジブリ

 そして、人々が闇に呑まれそうな、均衡が崩れた世界で何ができるのか? と問われれば、決して「ボスキャラであるクモをやっつけたら終わり」というわけでもない、ということも重要です。

 クモは不老不死を望んでおり、そのために生死両界を分かつ扉を開けることも、また世界の均衡を破壊する行為であると、ハイタカに非難されていました。しかし、クモは「笑止。貴様がいちばん良く知っているはずだ。世界の均衡など、とっくに崩れているではないか。それも人間の手によってな。人間の欲望に際限などないのだ。それを止めようなどムダなこと」と一刀両断にその言葉を切り捨てました。

 確かに、クモが不老不死を望んでいた、部下のウサギを使役して人身売買を奨めていたとしても、劇中の世界で人間たちがおかしくなっていることとは直接の関係はないでしょう。そもそも、世界の均衡が崩れるというまでの事態は、ただだ1人の悪人が起こせるものでも、それを倒したら終わりになるはずもありません

 ハイタカもまた「人間には人間ですら支配する力がある。だからこそ、わしらはどうしたら均衡が保たれるかよく学ばなければならない」と告げており、クモという個人ではなく「自分たちの行い」を鑑みることの重要性を説いていました。

ラストシーンにあったひとつの答え

ジブリ

 では、改めて均衡を保つためにできることとは何か? と問われば……ラストシーンがその答えのひとつなのでしょう。アレンとハイタカは共に牛の世話をする、テルーとテナーは畑に種を撒く、夕食時には家の食卓で笑い合い、針子仕事や道具の手入れもする……そうした「日常の何気ない、しかし生きるために必要な行いそのもの」を肯定すること、それこそが均衡を保つため、世界と人間たちがより良くために必要なものなのだろうと、やはり現実のコロナ禍も重ね合わせて思うことができたのです。

 ちなみに、『ゲド戦記』は原作の3巻である「さいはての島へ」を元としながらも、宮崎駿の絵物語『シュナの旅』を参考にしつつ大きくアレンジが加えられているのですが、さらに原作の4巻以降の要素も盛り込まれていたりもします。

 宮崎吾朗監督によると、その理由は「原作の4巻以降では、心の中の光と闇の均衡という内面的なテーマを離れ、変わり映えしない日常を生活者として暮らす中にこそ大事なことがある、という方向に変わっていく。改めて読んでみて、今はそっちの方が必要なんじゃないかと感じた」と語っていました。

 ラストの日常の描写は、原作へのリスペクトの結果であり、同時に(当時の)閉塞感に満ち満ちて神経症的になってしまった世界を反映したからこそ、生まれたものなのでしょう。

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