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本木雅弘、草彅剛が演じた「最後の将軍」。趣味に生きた男の“最大の功績”

コラム

20人以上の実子を生んでいる

江戸 城

 正室の美賀子との間に生まれた女子は夭折してしまったが、側室のお幸とお信は明治四年から明治二十一年まで、合わせて二十人以上(夭折も多い)の実子を産んでいる。このように慶喜は、自由の身になってからも一切政治には関与せず、二十年以上、趣味や子づくりに励んでいたのである。これは、大いに評価していいだろう。というのは、明治時代半ばまで明治政府の政治権力は脆弱であったからだ。

 たとえば明治六年、征韓論をめぐって政府は大分裂し、内乱の危機を迎えている。それから数年間、不平士族の乱が続発し、明治十年ついに西郷隆盛も挙兵、半年間にわたる戦い(西南戦争)が起こった。その後も自由民権運動が高揚し、激化事件が相次いだ。静岡でも明治十九年に政府転覆をはかって大臣を暗殺しようとした静岡事件が起きている。

 当然、こうした政争や反乱において、慶喜が反政府的言動をとれば、旧幕臣などが呼応し、あるいは政府を危機に陥れることは可能だったかもしれない。きっと、不穏分子も慶喜のもとに寄ってきたはず。が、あえて彼はその政治力を封殺したのである。これは、なかなかできることではあるまい。己を政治的に無能にし続けた。これが慶喜の最大の功績だといえよう

 そんな慶喜が初めて上京するのは明治十九年、実母登美子の病気見舞いにさいしてであった。それから十一年後の明治三十年(一八九七)、慶喜は静岡を去って東京巣鴨に居を移した。すでに六十歳になっていた。もう慶喜が首都にのぼったとて、動揺が起こるような時代ではなくなっていた。

天皇との歴史的な再会

 翌明治三十一年(一八九八)、慶喜は皇居に参内して明治天皇に拝謁した。三十年ぶりの再会であった。四十七歳の天皇は、温かく最後の老将軍をもてなしたと伝えられる。参内の翌日、慶喜は勝海舟の屋敷を訪れた。勝は「これで俺も重荷を下ろした」と述べているので、拝謁の儀の実現に尽力したのは勝であり、慶喜はその礼に訪問したのであろう。

 勝は江戸無血開城に成功したのち、明治政府に出仕し、政府の高官となったが、その一方で、徳川旧臣らの生活が成り立つよう、さまざまなかたちで助力してきた。徳川家を潰してしまった慶喜にとって、まさに頭の上がらぬ老臣だった。それに勝は、嫡男の小鹿が死んだのち、慶喜の十男精を養子に迎えていた。

 つまり縁戚でもあったのだ。そんな勝が翌三十二年一月十九日、七十七歳で死去した。この連絡があると、ただちに慶喜は人力車で赤坂の勝邸に駆けつけた。このとき慶喜は、車夫に向かって「急げ、急げ」と言い、車内をしきりに蹴ったという(遠藤幸威著『女聞き書き 徳川慶喜残照』)。それほど心が急いていたのだろう。慶喜が勝海舟逝去の電報を受け取ったのは午後七時十五分、それからわずか二十五分後に屋敷から出て勝家に向かっている。慶喜にとって、いかに勝が大切な人物だったかがよくわかる。

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