「1日で600万円の損失」で魂が抜ける体験も……作家・末井昭の「お金にまつわる壮絶伝説」
出版社・白夜書房の元編集局長で、現・作家、サックスプレイヤーの末井昭氏。
かつては、数多くのヒット雑誌を手がけたカリスマ編集者として業界内外でよく知られ、白夜書房退職後は作家に転向。著書『自殺』で「第30回講談社エッセイ賞」を受賞するなど、末井氏を前に「人智を超えた天才」と評する人もいるほど稀有な存在だ。
他方、プライベートでは数多くの「激しい経験」をしていることも有名で、こういった経験から「人生の総合デパート」と、評されることもある。
「貨幣が流通していない」「野生のイノシシを捌いて食べる」岡山県の山の中で生まれ、小学生の頃には、実の母が不倫相手の男性とダイナマイトを使い爆発自殺。高校卒業後、大阪の工場に就職したもののすぐに脱走。上京後「革命的デザイナーになる」と一念発起し職業を転々とし、やがてアダルト系の雑誌を制作するようになった。
その結果、発行部数50万部もの大ヒット雑誌を続々と手がけることにもなったが、プライベートでは不動産投資を始め、さらに先物取引やギャンブルなどにハマり膨大な借金を抱えたという。
お金にかかわる逸話以外でも、複数の愛人との生活など、激しいエピソードが多く2018年には映画化もされ、出版業界以外からも注目を浴びることにもなった。「規格外」とも言うべき末井氏の人生だが、今回は、若い世代が特に悩んでいる「お金」にまつわる末井氏の経験を、本人から語ってもらった。
目次
「うまいものを食べたいから」という、ささやかなお金への執着
若い世代にとって、定番の悩み「お金」。今から50年以上前、10代だった末井氏も相応の「お金への執着」を持っていたという。
「ただ、『お金への執着』と言ってもささやかなものですよ。岡山の田舎で10代を過ごしたこともあって、情報もなければ食べ物も限られていたから『ブランド服を着て、高級レストランで食事をして』なんて知らなかったし、ただただ『うまいものを食べたい』っていう。
『都会に出て、お金を稼いで、なんかうまいものを食べたい』っていう程度。それくらいのささやかな『お金への執着』でした」(末井氏)
そういった思いから末井氏は「早く稼ぎたい。美味しいものを食べたい」と岡山から大阪・枚方のステンレス工場に就職。その会社の寮で生活することになった。しかし、当初岡山で描いていた末井氏のイメージとは随分違ったと言う。
「田舎育ちだったこともあって近代的な工場に憧れを抱いていたんです。広い工業地帯に工場が建ち並んでいて配管がグルグル張り巡らされていたり、石油コンビナートが並んで24時間シュワシュワ煙をあげている……ああいう景色が、田舎育ちの僕からすれば近代的でカッコ良く映ったんですね。
そういう近代的な工場の中で、何か研究室みたいなところで図面とかデータを見たりして『なるほど……』とかやっているような姿を想像して工場に就職することにしたんですけど、全然違うわけですよ。
広野の中にポツンと町の鉄工場を巨大にしたようなところで。ステンレスの線を作る作業をしていたんだけど、ときどき『線』が機械から飛んできたりして、すごく危険なんです。『ええ? こんなところに来ちゃったの?』という感じでした」(末井氏)
工場では、末井氏の目的だった「うまいもの」も満足なものではなかったようだ。
「工場の近くに1軒だけ食堂があって、そこに仕事が終わった後工員たちが集まって食事したり酒を飲んだりするんです。
僕はそこでようやく『うまいものにありつける』と思ってラーメンを頼みました。当時1杯60円くらいだったと思うけど、食堂のマスターが持って来た丼の中にはチキンラーメンが入ってるだけ。『あれ?』と思ったら、後からお湯をかけてもらって終わり。
今思うと、当時30円くらいで売っているものを1杯60円で売るなんてひどいと思うけど、それでも美味しかったですよ、チキンラーメン。田舎ではチキンラーメンなんて売っていなかったし、加工食品って味が強烈でしょう。あの強烈な味を美味しく感じました」(末井氏)
19歳の同僚が語った、何十年も先の「退職金の話」
末井氏がこの工場に勤めたのはわずか3ヶ月ほど。この工場で、社員が自衛隊に体験入隊する制度があったことを知り、それが嫌で工場・寮から逃げることにしたという。
しかし、わずか3ヶ月の給料では、脱走するにも資金が足りない。そこで末井氏は荒っぽい手段で、脱走資金を調達することにした。
「工場から一番近い駅まで行くと電気屋さんがあるんです。その店は工員がよく買っていて工場の名前を言えば身分を保証してくれて、月賦がきいたんです。そこで僕は月賦でステレオを購入し、それをすぐ寮の仲間に売りつけて、わずかな資金を調達しました。そのお金を持って、布団袋と少しの荷物を持って逃げることにしました。
向かったのは当時父がいた川崎です。工場があった枚方から一旦大阪に出て鈍行で行きました。もちろん切符は大阪からの1駅分しか買いません。一昼夜かけて川崎の平間という駅まで辿りついたのですが、ここで困ったのが改札を通れなかったこと。しょうがないからホームから線路に飛び降りて踏切から逃げました」(末井氏)
見事、脱走し川崎に辿りつくことができた末井氏は、しばらく父が暮らしていたアパートで同居することになった。そして、父が派遣の工員として勤務していた三菱の工場に、末井氏もコネを使って勤めることになった。しかし、末井氏は父との生活もそう長くは続かなかった。
「僕が配属されたのは精密検査室というところで、仕事としては結構楽だったんです。でも、そこの別の部署の先輩とかが変な話をするんですよ。『末井くんは中途採用だから、退職金はこれくらい安いよ』とか(苦笑)。だって18か19の頃だよ。あの頃の定年の設定が55歳だか60歳だか知らないけどさ、そんな何十年先の話を今からするって、どういう感覚なのかなって思って。
あと、僕は楽な部署だったけど、親父がいた派遣の部署は過酷だったみたいで。『傷害保険をもらうために、わざと鉄を足の上に落とした人がいる』『俺もやってみようかな』みたいな。親父がそういう暗い話ばっかりするので一緒にいるのがイヤになり、この部屋も出ることにしました」(末井氏)
自分もお金がないのに奢ってくれた唯一の友だち
父のアパートを出て3畳間のアパートを借りた末井氏だが、三菱を退職することなく、そのまま勤務し続けた。また、この頃知った「グラフィックデザイナー」になるためにデザイン学校に通うことにし、その入学金を稼ぐために日々働き続けたという。
朝は牛乳配達をし、昼間は三菱に勤務して昼寝、夜は目覚まし時計の組み立てという内職を始めた。また、デザイナーを目指しているのであらかじめ技術を得るためにレタリング(手書きでフォントやロゴなどを作るもの)の通信講座も始めた。
果たして、デザイン学校の資金を得て入学することになったが、学生運動の余波で、入学後すぐに学校が閉鎖。がんばって貯めた資金が全て台無しになってしまった。
「あれは残念でしたが、しょうがないので、その後すぐにディスプレイなどの仕事を行うデザイン会社に就職しました。
でも、『革命的なグラフィックデザイナーになりたい』と思っていたので、今思うと、頭の中では変なことばっかり考えていたわけですよ。『ボウリング場に天狗のお面をたくさんぶら下げる』とか(苦笑)。結局、その会社もまたすぐ辞めることになりました」(末井氏)
そんな末井氏だったのでデザイン会社では友達もできなかったというが、唯一親しくしてくれていた人がいた。その人との「お金」にまつわるエピソードが泣ける。
「デザイン会社では夜食、みんなが中華料理の出前を取ることがありました。本当は僕もラーメンを食べたかったんだけど、お金がなかったので頼めなかったんですよ。するとさ、唯一近松さんという同僚が『末井くんも頼みなよ。僕が奢るから』と言って頼んでくれたんです。
でも、実際に出前が届いた会計の際になると、近松さんも実はお金がなかったんです。出前の人に『ツケといてください』って言うの。『いやうちはツケやっていないんだから困りますよ』って怒られていました。自分もお金がないのに、僕におごってくれるなんて『優しい人だなぁ』と思ってすごく嬉しく思いました。
ただ、今思うと、当時は近松さんも僕もたぶん『お金』ってことをあんまり考えていなかったかなぁとも思います。最低限生活はできていたし、『もっと稼ぎたい』という気持ちは僕にはなかったですから。それよりも『自分の表現をしたい』っていう思いのほうが強かったんです」(末井氏)
職業を転々とした後、白夜書房立ち上げに参加
このデザイン会社を辞めた末井氏はキャバレーチェーンに転職。その後、フリーランスで、ガラスに金箔を張る仕事、ピンクサロンの看板描きなどを経て、アダルトの出版の仕事に関わりだすようになる。
「職業を転々としていました(笑)。どうもチームワークというものが苦手だったんですよね。大勢の中だと遠慮してしまうというか。
それでデザイン会社の次のキャバレーも辞めて、フリーランスで看板描きなどをやるようになったんだけど、キャバレー時代に知り合ったカメラマンが出版社に入り、そのツテで、出版関係の仕事が入るようになりました。
その流れで出会ったのが、後の白夜書房の社長でした。当初は僕が外注でグラビア雑誌を作る仕事をしてたんですけど、経費をかけすぎちゃって、全然儲けが出ないことに気づいて。『このままだと赤字が続いて困る』と思ったところに、ちょうど社長が『会社を作る』と言うので、そこにいきなり取締役として入ることにしました」(末井氏)