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米アカデミー賞受賞なるか?『ドライブ・マイ・カー』が普通の日本映画と違うワケ

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観客の心に浸透する「映画の現実」

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 悠介が演出する演劇の稽古場面は象徴的だ。優しげな木漏れ日が差す公園で適当な場所を探しながらぞろぞろ歩き、野外広場を見つける。なんてことはないはずの木漏れ日が、こんなにも美しいもののひとつとして映し出される。普段は無関心な人でも本作を見て、公園の木漏れ日の温もりを思わず感じてしまうはずだ。

 濱口監督の映像がときに「ドキュメンタリー的」だと言われるのは、実は現実以上に生々しいもうひとつの「映画の現実」が、画面上にはっきりと映っているからだ。それは臨場感とはまったく違うリアリズムとして、生きている実感みたいなものを感じせてくれる。

 なぜか、この野外場面を見ていると、心がぽかぽかと温かくなってくる。そんな多幸感を覚える。それが、観客の心に深く浸透する濱口監督の映画の魅力なのだ。

映画史の文脈の中で生きる誇り高さ

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 このように濱口監督の映画世界には、現実に対する思わぬ発見と想像力を働かせる力がある。カメラが映し出す現実は、実は現実そのものではない。カメラのフレームが切り取るのは、作り手が見つめる作為的な世界であり、フレームの外に広がる世界を観客は見ることはできない。けれど、フレームの外にこそ、私たちが生きるほんとうの現実世界が広がっている。

 映画館は、そのふたつの世界を繋ぐ空間だ。だから本作を観る前と観た後では、映画館の外に出た後の現実の景色が変わっている。少なくともいつもとは違うと、わずかにでも感じられる。そんな機能を果たすのが、映画という芸術メディアなのだろう。

 こうした映画の現実に意識的な濱口監督は、1895年にリュミエール兄弟によってフランスで誕生した映画史の重みを感じながら、先人たちが考えてきた映画の本質についてより深い探究心を持っている。

 彼が世界的な評価を得て当然なのは、まさに映画史の文脈の中で今なお生き、映画芸術の可能性を探り、捉え直し、独自に表現性を追求する芸術的な職人だからだろう。それが、アカデミー賞ノミネートに相応しい濱口監督の映画作家としての誇り高さでもある。

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