菅野美穂、上白石萌音も演じた“将軍夫人”の生涯。気位の高い嫁との反目の果てに
将軍夫人の使命
だが、慶喜は結局、難局を乗り切れずに大政奉還によって政権を投げ出し、さらに、鳥羽・伏見の戦いで敗れると、さっさと部下を捨てて江戸へ逃げ戻ってしまう。まもなくこれを追って新政府軍が襲来、慶応四年(一八六六)三月、江戸は完全に包囲され、新政府軍は総攻撃の準備をととのえた。
ここにおいて篤姫は、意外にも和宮と協力して、徳川家存続のために動き始めたのである。和宮は、朝廷に対し徳川家の存続を求める嘆願書をしたためた。書中で彼女は、「もし官軍が江戸城を攻めるのであれば、自分は徳川と命運をともにする」と記したのだ。
皇女和宮のいる江戸城を攻撃できるのか、そういう脅しとも受け取れる強い口調であった。一方、篤姫は、新政府軍の最高司令官であった同郷薩摩の西郷隆盛らに、切々たる嘆願書を差し出した。
同書で篤姫は、「私事、徳川家に嫁し付候上は、当家の土となり候は勿論」と覚悟のほどを示し、「存命中、当家(徳川家)万々一之事出来候ては、地下において何の面目もこれなきと、日夜寝食も安んぜず、悲嘆いたしおり候心中のほどお察しくだされ」と苦衷の胸のうちを訴えた。
江戸総攻撃を防いだ篤姫と和宮
ただ、敵前逃亡して徳川家を窮地に追い込んだ慶喜については、「当人(慶喜)は、いか様天罰仰せつけられ候ても是非に及ばざる事」つまり、慶喜はどうなってもかまわないと切り捨てたのである。
慶喜は将軍在任中、大奥の予算削減を断行したので、大奥女中からは憎まれていた。ただ、おそらく篤姫の言葉は、徳川家を存亡の危機に追い込んだ、慶喜に対する憤りから来ているのではないかと思われる。
最終的に、新政府軍の西郷隆盛と幕府の勝海舟の直接会談によって、江戸城を無血開城することを条件に、江戸総攻撃は中止され、徳川家の存続も認められたが、この決定の背景には、今述べたように篤姫と和宮の尽力があることも忘れてはならない。