菅野美穂、上白石萌音も演じた“将軍夫人”の生涯。気位の高い嫁との反目の果てに
現在放送中のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、幕末から明治期に活躍した“日本の資本主義の父”渋沢栄一が主役。そのなかで女優の上白石萌音さんが演じているのが、天璋院(篤姫)だ。
2008年の大河ドラマで注目された篤姫は、島津氏の分家である今和泉家に生まれ、江戸幕府第13代将軍・徳川家定の正室となり、陰で支えた。そんな篤姫だが、明治維新後はどのような人生を送ったのか?
歴史の偉人たちの知られざる“その後の人生”を人気歴史研究家の河合敦氏が解説する(河合敦著『お姫様は「幕末・明治」をどう生きたのか』より一部編集のうえ、抜粋)。
大奥、大河ドラマで人気の「篤姫」
篤姫は、平成十五年(二〇〇三)、『大奥』(フジテレビ)で菅野美穂さんがこの役を演じて話題となったが、平成二十年には大河ドラマとなり、とても好評で視聴率もよかったことから一気に知名度がアップした。原作は宮尾登美子氏の『天璋院篤姫』(講談社)で、主演は宮﨑あおいさんだった。
徳川将軍家の正室(御台所)には、代々、皇族や公卿の娘を迎えるのが習わしだった。十三代将軍家定(いえさだ)の正室である篤姫も、右大臣近衛忠熙(ただひろ)の娘である。しかし、娘といってもじつは養女であり、あくまで徳川将軍家に輿入いれするため、体裁をととのえたに過ぎなかった。
篤姫の実父は、薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)の叔父忠剛(ただたけ)である。篤姫は、従兄であり藩主の斉彬の求めによって、いったん斉彬の養女となってから近衛家の養女となり、徳川将軍家に輿入れしたのである。
南紀派と一橋派で対立する幕府
斉彬が篤姫を大奥へ入れたのは、南紀派との戦いに勝つためというのが、これまでの定説であった。当時、将軍家定の後継者をめぐって、幕府内では二派に分かれて対立が始まり出していたとされる。
譜代大名の多くは、紀州藩主徳川慶福(よしとみ)を推し、彼らは南紀派と呼ばれた。これに対して、島津斉彬、山内容堂(豊信)、徳川斉昭(なりあき)、松平春嶽(慶永)といった開明的な大名たちは、聡明な一橋慶喜(よしのぶ)を推し、一橋派と言われた。
なお、一橋慶喜は水戸藩主徳川斉昭の実子で、養子に入って一橋家を嗣いだのである。慶喜の実父斉昭は、常々幕府に倹約を説いていたので、「もし斉昭の息子が将軍になれば、きっと大奥も予算を削られ、質素な生活を強いられるだろう」、そんなふうに危惧した大奥の女性たちは慶喜を嫌い、圧倒的に南紀派を支持する声が強かった。