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宮澤喜一にすら小馬鹿にされた…“戦後最も偉大な総理大臣”の不遇すぎる前半生

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「宮沢、車を降りろ!」

 池田と宮澤の縁ですが、これも望月圭介が関係しています。

 池田の父が望月圭介の支援者で、池田が望月の推薦で大蔵省に入ったり、病気から回復したときに日立製作所への就職の世話をしてもらったりしたことは前述の通りです。宮澤喜一の父・裕(ゆたか)はその望月の秘書官をしていました。そして、池田勇人と広沢伯爵の娘直子を娶らせた事実上の仲人が宮澤裕です(同、二七頁)。

 宮澤喜一は、かなりの頑固者で、戦後、政治家となった池田の秘書官をしていた頃に、こんなエピソードがあります。

 どしゃぶりの雨の中、池田と宮澤秘書官と小島秘書が同じ車に乗っていました。池田と宮澤の間に激論がはじまり、宮澤は譲らない。池田は怒って叫びました。「宮沢、車を降りろ! 降りんのか。小島! 宮澤をつまみ出せ!」

 しかし、宮澤は頑として聞き入れず「私は降りません」で頑張り通したということです(『池田勇人とその時代』二八四頁)。

アパルトヘイト下の大蔵省での不遇

日本国 政府専用機

 ちなみに昭和五十九(一九八四)年三月、宮澤が六十五歳の時にホテルニューオータニで暴漢に襲われ、三十分ほど格闘の末、ようやく逃げ出すことができたという武勇伝があります。

 三十分も一対一で組んずほぐれつですから、相当に体力を消耗します。縫うような怪我もさせられ、灰皿をぶつけられた上あごには軽い後遺症が残ったそうです(『聞き書 宮澤喜一回顧録』二八八~二九一頁)。

 それはさておき、戦後は池田のブレーンのひとりとして高度経済成長の一翼を担っていく宮澤喜一が入省時には「なんであんな人が保証人」と言われてしまうほど、池田の大蔵省での立場は情けないものでした

 これは宮澤の性格が悪いからではなく、アパルトヘイト下の大蔵省では、「名誉白人」の池田は、どこまでいっても差別的待遇を受けるのです。

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