起業家アイドルを生んだ“過酷な生い立ち”と“ハングリー精神”
中学卒業したら、自分は舞妓になる――。小さい頃からそれだけを考えて修行をしてきたから、カナダから急に呼び戻されたときは、ついにデビューかと思っていました。ところが急に「舞妓にはならせない」と言われてしまったんです。
人間国宝の先生に着物を仕立ててもらって、お金をかけて装飾品まで準備して、正式に名前をもらう、ほんの数日前でした。そこからは、本当に何をするべきかわからなくなって。しばらくは家で何もできず、引きこもりみたいに暮らしてました。
恩讐の彼方に培った「ハングリー精神」
当時は子供だから事情がわからなかったんですが、私が舞妓デビューするかしないかというときに、周りのお茶屋さんから母が、「娘を舞妓にするなら、あなたの置屋には舞妓も芸姑も派遣しない」って言われたみたいなんです。真偽も真意もわかりませんが、もし本当ならイジメに近い仕打ちであると思います。
本当に大嫌いな母でしたけど、今振り返ってみる少しは理解できる気がしますね。先代の女将が急に亡くなって、ほとんどゼロからのスタート。当時27歳で15~16歳の若い子を預かって、女将業をやりながら途中から母親になって。もし自分が同じ境遇で同じように仕事をできるかと言われたら、たぶん難しい。
母は40歳くらいで、周りのお茶屋さんの女将さんたちは70~80歳。大先輩たちを敵に回すわけにもいかないし、忖度して、私との親子関係よりも、お茶屋・置屋の女将として店を守るという決断をした。
仕方ないとは思いませんし、今あらためて考えると理解できる部分もありますけど……。やっぱり当時のつらい記憶はハングリー精神にもつながっているので、いままで頑張ってこれた理由の大きな部分に「見返してやりたい」「母よりも成功したい」という気持ちがあったのは間違いないですね。
<TEXT/栄藤仁美>