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徳川幕府最後の老中がたどった「数奇な運命」。維新後は20年もの隠遁生活に

コラム

胖之助の死で、悲嘆にくれる長行

刀

 行軍途中で愛した胖之助の壮絶な死を知った長行だが、それについて次のような想いを残している。「七重といふ村を過るに、おのれがいろとの(弟)、いぬる(死ぬ)かんな月の末の四日の日、たゝかひにこゝにて討死したるを、宝林庵てふ寺に送りたると聞くものから、そがおきつきにまう(詣)でしに、懐旧の涙とゞめあへず、名残のいとをしまれけれど、さてあるべき事ならねば、逶々としてたち去りつゝ、日くれはつる頃、五稜郭の城のほとりになんたどりつきぬる」(『夢のかごと』)。

 このように長行は胖之助の墓に詣で、ともに過ごした日々を思い出しつつ涙を流したのである。どうも、これがきっかけで長行は厭戦気分が強くなってしまったようだ。旧幕府軍はその後、松前藩を駆逐して蝦夷全島を統一して蝦夷政府を設立するが、長行が政権に参画することはなかった。箱館の郊外の空き家に引き籠もって、世捨て人のごとき生活を始めた。かつての主戦派老中が、である。

「五稜郭の城より西北なる人の住すてし庵になんうつりてける。もとよりすみあらしたるいぶせき家にしあなれば、暁かけてさうじのひまより雪霰なんどの、吹いるゝものから、さむさたへがたくて、いも寝られず、海は少し遠けれどよるよるは浪の音の枕にひゞきて物思ふ身は一しほに、こしかた行末の事なんど、おもひ出られて、かの立しら波のよるぞわびしきてふ、いとゞあはれぞまさりける」(『前掲書』)。

「アメリカへ逃走した」とデマを吹聴

 翌明治二年(一八六九)春、いよいよ雪が解けると、新政府軍が大挙して蝦夷地に押し寄せてきた。旧幕府艦隊の旗艦開陽は沈没してしまい、土方歳三が新政府の大軍を引きつけて善戦したものの、各地で味方の敗北が続き、ついに箱館に新政府軍が姿を見せ始めた。五月、総攻撃がおこなわれ、土方歳三はじめ多くの歴戦の強者が戦死、五稜郭は城門を開いて榎本ら蝦夷政府の閣僚は降伏した。この間、小笠原長行は姿をくらました。じつは総攻撃が始まる前、側近の新井常保と堀川慎の手引きによって、箱館港からアメリカ汽船で脱出、横浜に到着するとただちに東京へ入り、旧知の新発田藩士大野賢次郎の庇護を受け、湯島の妻恋に一戸を借りて潜伏したのである

 この時期、東京にいた唐津藩士は唐津に戻ったり、士籍を抜いて各地に散ってしまっていた。唐津藩邸には、警備や事務にあたる者が数名いる程度であった。だから、長行の東京潜伏を知る唐津藩士はごくわずかで、しかも彼らは盛んに「長行はアメリカへ逃走した」とデマを吹聴した。

 さらに横浜在住のアメリカ人に宛てて為替を振り込み、そのアメリカ人から長行のもとにそれを転送させ、生活費にあてさせたのである。箱館まで行った政府高官が戦後みな降伏しているにもかかわらず、長行は投降しようとしなかった。明治四年、廃藩置県によって唐津藩は地上から消滅した。それでも長行は出ていかなかった。

 明治五年一月、朝敵とされた元会津藩主松平容保が宥免された。さらにあの榎本武揚も同月、特赦により出獄した。ここにおいてようやく小笠原長行は、人前に姿を現したのである。政府との仲介役は、旧藩主小笠原長国と元佐賀藩主の鍋島直大が買って出た。長国が東京府知事の大久保一翁に宛てた長行に対する赦免申請書には、「長国は東北へ脱出し、その後、箱館に出て洋船に乗り込んだところ、風浪が激しく漂流し、アメリカへ行ってしまったが、ただいま帰朝したので謹つつしんで政府の命を待たせている」とあった。もちろん嘘である。

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