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徳川幕府最後の老中がたどった「数奇な運命」。維新後は20年もの隠遁生活に

コラム

会津に向かった長行の決意

 ところが、である。なんとその夜に、長行は忽然と姿をくらましたのである。おそらく、「おとなしく出頭すれば、新政府方に引き渡されるかもしれない」と考えたのだろう。彼のことだ。それが恐ろしいのではなく、虜囚というはずかしめを受けるのが嫌だったのだろう。長行は、正室や側室を他所へ隠したうえで、かつて小笠原家が領していた奥州棚倉へと向かった。従う者は、わずか十数名であった。が、いずれも信頼に足る者たちだった。

 それから十日後に江戸無血開城が決まり、さらに徳川が無条件降伏したことで、新政府はスケープゴートとして会津藩を朝敵とし、征伐することに決めた。そんな会津藩が新政府に抗戦するつもりだと知ると、なんと長行は、彼らとともに戦うべく棚倉から会津へ向かったのである。「自分はこのままでは終われない」と思ったのだろう。居所として会津藩は、長行に藩主の別荘「御薬園」を提供した。新政府は、朝廷に楯突つく小笠原長行の逮捕命令を唐津藩に再三発した。唐津藩は新政府に忠節を誓い征討軍を派遣していたが、長行の勝手な行動で心証が悪くなり、仕方なく唐津炭五百万斤を提供するなどして印象の改善をはかろうとした。

 五月、新政府の強引な会津討伐方針に反発した東北・北越諸藩が、奥羽越列藩同盟を結び、政府に抵抗する姿勢を明確にした。同盟側は、盟主である仙台藩重臣の片倉氏が支配する白石城(仙台藩領)に列藩同盟公議府を設置した。明治天皇の叔父にあたる輪王寺宮(寛永寺 貫主・日光輪王寺 門跡)が上野戦争ののち、上野寛永寺を脱し、東北にやってきた。このため、宮が奥羽越列藩同盟の盟主に擁立されたのだ。このおり長行も白石へ向かい、七月から輪王寺宮を補佐する立場についた。

 この頃から新政府軍の猛攻が始まり、現在の福島県域に続々と新政府軍が侵入してきた。戦いは新政府軍の圧倒的優位のうちに進み、二本松城、棚倉城、磐城平城などが次々と落ちた。また、三春藩は手のひらを返して新政府方に寝返り、守山藩も新政府に恭順してしまった。

新政府に抵抗。蝦夷地への転戦

五稜郭

五稜郭

 こうした状況のなかで、小笠原長行は仙台まで赴いて藩主と会談し、要地である二本松城の奪還を強く主張した。しかし、状況はその後も悪化の一途をたどり、いよいよ新政府軍は大挙して猪苗代湖方面へ進んで母成峠で旧幕府軍・会津軍・奥羽越列藩同盟軍を撃破、八月後半に鶴ヶ城(会津若松城)まで進撃してきた。長行は福島にいたが、この頃、列藩同盟の盟主である仙台藩は降伏に傾き始め、九月十日、正式にそれを藩の決定としてしまう。こうしたなかで長行は、榎本武揚率いる旧幕府艦隊に合流して、さらに新政府に抵抗する決意を固めたのである。

 長行は白石から仙台へ入り、同じく老中だった板倉勝静らとともに、軍艦開陽に乗り込んで蝦夷地へ渡った。慶応四年(一八六八)十月十九日のことだった。上陸地点(鷲ノ木という場所)が見えてきたとき、甲板に出た長行は次のような気持ちを記している。「四方のけしきを眺めやるに、雪白ふ降積りて、山のかたち、林のさまなんど、おどろおどろしく我国にはよもあらじと、おもゆるばかりなる」(『夢のかごと』)。さすがに剛腹な長行も、これまで見たことのない異国のごとき光景に、心細さを覚えたようである

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