徳川幕府最後の老中がたどった「数奇な運命」。維新後は20年もの隠遁生活に
長州軍を苦しめ続けたゲリラ戦
まさに危機的な形勢を迎えた小倉藩ゆえ、七月三十日の夜、小倉藩家老の田中孫兵衛がその窮状を訴え、幕府の助力を乞おうと長行のいる本営を訪ねた。ところが、幕府の役人がそれを制止するではないか――。怒った孫兵衛がそれを押しのけて居室に入ると、なんとなかはもぬけの殻だったのである。この日の夕方、長行は誰にも知らせず本営から出て、小舟で川をくだって沖合に停泊している幕府の富士山丸に乗り込んでしまったのだ。そう、敵前逃亡したのである。
事態を知った小倉藩では、使者がすぐさま富士山丸へ向かったが、結局、長行との対面は叶わず、そのまま富士山丸は出航してしまった。じつは、将軍家茂が大坂城で逝去したという情報が長行のもとに入ったのである。このため、味方の混乱を恐れてこのような行動に出たのだ。それにしても、戦いの最中に最高責任者が敵に背を向けて遁走するなど、驚くべき卑怯な行動だった。こうして小倉藩は孤立する状況になったが、長州藩に降伏する道はとらず、みずから小倉城を焼き払って、ゲリラ戦を始め、長州軍を苦しめ続けた。まことに見上げた行動だった。
それからまもなく、幕府は将軍の喪に服すという理由で勝手に長州領から兵を退き、第二次長州征討は終わりを告げた。が、明らかにこの戦いは征討軍の敗北であり、幕府の権威は地に堕ちた。
新政府に恭順した唐津藩
新将軍になった慶喜は猛烈な幕政改革によって権威の回復をはかるが、倒幕の動きは変えることができず、慶応三年十月十四日にみずから政権を朝廷に返上した(大政奉還)。慶喜としては、新しくできる朝廷の新政府に参画して政権を主導しようと考えていたようだが、十二月九日に倒幕派がクーデターを決行、新政府樹立宣言である王政復古の大号令が出され、その後の小御所会議で、慶喜に対して辞官納地(内大臣の免職と領地の返上)が決定。これにより新政権の中心になるという慶喜の期待は砕かれた。
その後、江戸で佐幕派が薩摩藩邸を焼き打ちしたことで、大坂城の旧幕臣や佐幕派が激高。ついに「討薩」をかかげて旧幕府軍は京都へと進撃した。長行は長州軍の強さを身をもって実感したこともあり、江戸にあって幕府の閣僚たちに「非戦」を説いた。が、その主張は煙たがられて受け入れられず、結局、慶応四年(一八六八=明治元年)正月、鳥羽・伏見で旧幕府軍は薩長軍と激突、撃破されてしまうのである。錦の御旗がゆだねられたことで、薩長は官軍となり、西国諸藩は続々と新政府方に味方していった。
一方、徳川慶喜は大坂城から江戸へ逃亡したが、朝敵とされ、征討軍が江戸へと近づいてきた。長行の唐津藩は当初、形勢を傍観していたが、藩主長国は佐賀藩に朝廷へのとりなしを乞い、征討軍に加わって東へ進んだ。また、同年二月、長国は佐幕派の長行を廃嫡処分とした。唐津藩が生き残るためには、そうするほかなかったのだろう。さらに三月三日、江戸の深川屋敷にいた長行のもとに、長谷川清兵衛が国元から使者として送られ、すぐに帰国するよう伝達された。長行はこれを快諾し、「明後日の早朝にお前とともに出立する」と約束した。