徳川幕府最後の老中がたどった「数奇な運命」。維新後は20年もの隠遁生活に
長州の離反と、幕府征討軍の敗退
幕府は、禁門の変で敗れ朝敵となった長州藩を征討すべく大軍を派遣した(第一次長州征討)。しかし、保守派政権に変わった長州藩が、尊攘派三家老の首を差し出して恭順してきたので、征討軍は戦わずして引き揚げた。そして、慶応二年(一八六六)二月、小笠原長行は幕府の責任者として広島に派遣され、長州藩側との交渉にあたることとなった。長行は、交渉のため長州藩の家老や支藩の藩主たちを広島に呼び出したが、彼らは病だと称して出頭を拒絶した。その後、四月になってようやく毛利の使者がやってきたので、長行は長州藩に対し「十万石の減封と藩主父子の蟄居」を通告した。
すでに処分内容については、孝明天皇の勅許は得ていた。長行は、長州藩主毛利敬親父子に「請書(処分内容を受諾する書状)」を五月末まで提出するよう命じた。この頃の長州藩では、高杉晋作がクーデターを起こして保守政権を倒し、桂小五郎を中心とする革新政権が誕生していた。さらにそれに先立つ同年一月には、密かに薩長同盟が締結されていたのである。このため、請書が藩主父子から長行に提出されることはなかった。
そう、長州藩は、幕府の要求を拒絶したのである。これにより交渉は決裂、同年六月、第二次長州征討が始まった。十五万の征討軍が組織され、紀州藩主徳川茂承を御先手総督として大軍が長州に向けて進発、西国諸藩も続々と出陣し、長州領の包囲を開始した。
このとき長行は九州方面軍の総督に任じられ、船で九州小倉へ向かい、開善寺に本陣をすえた。戦いは幕府海軍が六月七日に長州領の周防大島を砲撃したことで火ぶたが切って落とされた。以後、石州口、小倉口、芸州口などで次々と戦いが始まった。すでに薩長同盟が結ばれていたので、薩摩はイギリスのグラバーから最新式の兵器を購入し、坂本龍馬の結社亀山社中を通してどんどんと長州藩に流していた。なおかつ、長州軍は四国艦隊下関砲撃事件のときに外国軍との戦いを経験しており、すでに洋式歩兵軍への転換を遂げていた。とくに士庶有志で結成された奇兵隊をはじめとする諸隊は、兵としての練度が極めて高かった。
長州兵は軽装で散開しながら敵に迫り、最新の連発式銃を巧みに扱って次々と敵を倒していった。とくに長州側では、大敵に包囲され自領を侵略されるということで、領土や家族、親族を守るという意識が高く、士気は高揚していた。対して幕府の征討軍の士気は、低下し切っていた。薩摩藩や広島藩が征討軍への参加を堂々と拒否しており、それも大きく関係していた。そのうえ諸藩の装備は、戦国以来の甲冑と火縄銃という者が多かった。これではとても勝負にならず、必然的に各地で征討軍は長州軍に敗れていった。
長行、敵前逃亡?
しかも強大な幕府艦隊は、長州水軍を圧倒できたはずだが、艦船が傷つくのを恐れて積極的に戦おうとせず、ほとんど役に立たなかった。退勢は小倉口でも同じだった。小倉方面は、小倉城主十五万石の小笠原忠幹率いる軍事力がその主力であり、これに熊本藩(細川氏)、久留米藩(有馬氏)、柳河藩(立花氏)、幕府(江川太郎左衛門率いる八王子 千人隊)などが加勢に来ていた。しかし六月十六日夜半に長州の奇兵隊、報国隊などが田野浦と門司に奇襲上陸を敢行、小倉軍はこの強行軍をろくに迎撃できず、大きな被害を受け退却を余儀なくされた。
その後もたびたび長州軍の襲撃を受けるが、戦っているのは小倉兵だけで、他の味方は後方で事態を静観している状態だった。また、繰り返しになるが、幕府艦隊も小倉の征討軍を海上からろくに応援しようともしなかった。これに立腹した小倉藩は、長行に対し、「諸藩の応援や救助もない。このうえ敵が攻めてくるなら、我々は城を枕に討ち死にする覚悟である」という書面を差し出した。驚いた長行は、最新兵器を備えた五千人の熊本藩兵に強く交渉、結果、しぶしぶ彼らは前線にやってきた。
こうして熊本兵が最前線に配置されると、七月二十六日より長州軍の総攻撃がなされ、小倉と門司を結ぶ長崎街道ですさまじい激突が始まった。熊本兵は長州軍に大きな打撃を与えたものの、幕府の千人隊は彼らを支援しようとせず、小倉兵も戦い疲れたのか、城から出て来ず、幕府海軍もろくに味方しようともしなかった。このため、戦いが終わると熊本藩は激高して、勝手に陣をまとめて帰国してしまった。これを見た久留米軍や柳河軍も、続々と兵を退いてしまったのである。こうして小倉口には小倉藩兵と幕府千人隊しかいない状況となった。