徳川幕府最後の老中がたどった「数奇な運命」。維新後は20年もの隠遁生活に
内と外の圧力の間で
このとき長行は、将軍家茂とともに上洛していた。江戸の幕閣たちは、将軍が帰還するまで、賠償金の支払いの可否を引き延ばそうとしたが、それにも限界があった。こうした切迫した事態を知り、長行は文久三年四月に江戸へ戻り、みずからニールと交渉にあたった。そして、ほとんど独断をもって、賠償金の支払いをイギリス側に了承したのだった。
一方、京都では、とんでもない事態が進行しつつあった。京都に足止めされた将軍家茂が、朝廷の急進派の公家や彼らと裏で結ぶ尊攘派志士の圧力を受け、四月二十日に「五月十日をもって攘夷を決行する」と約束させられてしまったのである。このため、将軍後見役の一橋慶喜が、その事実を江戸の閣僚に伝えてイギリスへの賠償金の支払いを中止させる目的で、京都から江戸へ向かい始めたのである。
賠償金の支払い期限は五月三日と決まっていたが、この事実を慶喜からの書面で知った長行は、仕方なく慶喜の到着まで支払いを先送りすることに決め、「発病したので三日間だけ支払いを延期させてほしい」と五月二日に家臣を通じてニールに申し入れた。これにニールは激怒し、「期限までに賠償金が届かないときは、軍事行動を始める」と断言した。
かたや、慶喜はゆるゆると江戸に向かいながら、「金を払うな」という書面を盛んに送ってくるので、長行はどうにも動けなかった。開港地横浜では、フランス海兵隊が上陸したり、イギリス軍が戦闘準備を整えるなど、具体的な動きを始め緊迫した状況となった。「このままでは、確実に戦争になる」そう判断した長行は、武力衝突を避けるため、激しい非難を覚悟したうえで、五月九日に多額の賠償金を横浜のイギリス公使館へ運び込んだのだった。
幕末の目まぐるしい政局に翻弄されて
さらに、である。長行は驚くべき行動に出た。外国奉行や目付などとともに千人以上の兵を軍艦やイギリス船に分乗させ、海路西へ進み、大坂に上陸したのである。そして、その大軍を引き連れて京都方面を目指
して進軍を始めたのだ。この報を得て、京都の幕閣は仰天した。すぐさま、若年寄の稲葉正巳が長行のもとに駆けつけ、京都へ入らぬよう制止した。けれど長行は、淀まで歩を進めてしまう。だが結局、幕閣に入京を阻止されたうえ、長行は老中を解任された。しかもその免職は朝廷が幕府に要求したものであった。
朝廷が老中の進退に口を出すというのは、前代未聞のことだった。いかにこの時期、幕府の力が弱くなっているかがわかる。この軍事行動をとがめされたさい、長行は「生麦事件の賠償金支払いについて将軍に事情を説明し、攘夷決行について私見を話すつもりだった。他意はない」と述べている。だが、千人を超える兵を引き連れてやってきているのだ。そんな穏便な理由であるはずがない。明らかに嘘だろう。おそらく真の目的は、尊攘派に軍事的な圧力を与え、京都に軟禁状態に置かれ攘夷決行を迫られている将軍家茂を、江戸に連れ戻そうとしたのだ。
実際、長行の無謀な行動のおかげで、まもなく家茂は江戸へ戻ることができた。しかし、長行はその後、江戸で謹慎となってしまう。幕末の政局の転換はまことに目まぐるしい。翌元治元年(一八六四)七月、薩摩・会津藩ら公武合体派によって朝廷から尊攘派が駆逐され、それに激高して京都に襲来した長州軍が撃破(禁門の変)されると、九月に長行はふたたび老中に登用された。