本木雅弘、草彅剛が演じた「最後の将軍」。趣味に生きた男の“最大の功績”
1998年に放送された大河ドラマで、若き日の俳優・本木雅弘さんが演じた主人公の役柄を覚えているだろうか。国を背負い、命がけで時代と格闘した若き指導者・徳川慶喜だ。
昨年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では俳優の草彅剛さんが演じたことも話題になり、最後の将軍とも呼ばれる徳川慶喜だが、明治維新後はどのような人生を送ったのか?
歴史の偉人たちの知られざる“その後の人生”を人気歴史研究家の河合敦氏が解説する(河合敦著『殿様は「明治」をどう生きたのか2』より一部編集のうえ、抜粋)。
逃がした将軍の座
徳川慶喜は、水戸藩主徳川斉昭の七男として生まれ、一橋家(御三卿の一つ)を継承した。たいへん聡明であったことから、病弱な十三代将軍家定の後継者と目されたが、家定の従弟で紀州藩主の徳川慶福を推す南紀派に敗れてしまう。南紀派の井伊直弼が大老に就任し、強引に後嗣(跡継ぎ)を慶福(のちの家茂)に決定したからだ。
そこで慶喜を推す一橋派が抗議すると、前水戸藩主斉昭、尾張藩主徳川慶勝、福井藩主松平春嶽(慶永)など一橋派の面々は井伊に処罰され、慶喜自身も登城停止処分となった。安政の大獄の始まりである。だが、安政七年(一八六〇)三月、井伊は水戸藩士らに桜田門外で殺されてしまう。さらに文久二年(一八六二)正月、老中の安藤信正も坂下門外で襲撃されて失脚すると、幕府の威信は地に墜ちた。そんな状況のなか、同年薩摩藩主の実父島津久光が勅命を奉じて大軍で江戸へのぼり、幕府に政治改革を迫った。
幕府はその要求を受け入れて文久の改革を実施するが、改革にあたって人事が刷新され、慶喜は将軍後見職(将軍の補佐役)に登用された。そう、復権したのである。やがて京都へ赴いた慶喜は、孝明天皇や親幕派の公家から頼りにされ、元治元年(一八六四)には朝廷の禁裏御守衛総督に任命され、大きな政治力を有するようになる。幕府は慶喜の勢力増大を危惧して江戸に召還しようとしたが、慶喜は巧みにこれを阻止し、世間は「幕府には将軍が二人いる」と噂するほど慶喜の力は大きくなった。
将軍に就任するや猛然と政治改革を進めた
慶応二年(一八六六)六月、幕府軍(諸藩混成軍)は征討のために長州藩へ攻め入ったが、戦況ははかばかしくなく、しかも七月、将軍家茂が体調を崩して大坂城で逝去してしまった。家茂は征討へ出立する前夜、「私に万が一のことがあれば、跡目には田安亀之助(当時四歳)を立てよ」と老女滝山(大奥の実力者)に告げていた。亀之助は御三卿の一つ田安家の七代当主で、十三代将軍家定とは又従弟にあたった。
ただ、亀之助はまだ四歳の幼児。現実問題として、将軍になってこの政治的混乱を収拾できるのは慶喜しかいなかった。そこで連日のように幕臣たちが、慶喜に対して将軍職を継ぐよう勧めに来たが、慶喜は「大奥や譜代大名が反対しており、世間も私に野心があるように噂している」と固辞し続けた。結局、徳川宗家の相続は承諾したものの、将軍職は受け入れなかったのである。いままでは、宗家の相続は将軍襲封も意味していたから、これは前代未聞のことであった。慶喜はあえて分離することで、反対派の気勢を殺(そ)ごうと考えたのだろう。こうして同年八月、慶喜は徳川宗家の当主となった。
それから四ヵ月後、ようやく将軍職も受諾し、十五代将軍になったのである。慶喜は、八ヵ条の政治方針を老中たちに提示し、猛然と政治改革を進めた。旗本すべてを遊撃隊と称する銃隊に編成、知行高に応じて幕臣に莫大な金銭の供出を命じ、その金で傭兵を雇って一万数千人の近代的歩兵軍を創出したのだ。
また、フランス公使ロッシュに依頼して軍事顧問団を招いた。慶応三年初めに来日したブリュネらフランス人士官らは、選抜兵に一年近く徹底的な洋式歩兵訓練を施した。ちなみにその主力部隊(伝習隊)は、幕府瓦解後、歩兵奉行大鳥圭介に率いられて江戸府内から脱走、北関東から東北を転戦し、さらに箱館へ渡って抗戦、明治二年(一八六九)五月に五稜郭が開城したことで武装を解除した。