酒でうっぷんを晴らす…幕末の英雄が迎えた「46歳のあっけない最期」
まだ46歳で…英雄豪傑の最期
明治四年(一八七一)五月、容堂は箱根へ二ヵ月以上逗留している。ちょうどこの時期、薩長土三藩合わせて約七千の兵が東京に集結し、大久保と木戸らはこの軍事力(御親兵)を背景として、廃藩置県を断行しているところだった。そうした混乱と煩わしさを嫌って、容堂は箱根に待避しようとしたらしい。
なお、この頃すでに酒のために身体を害しており、明治五年正月、にわかに中風(脳血管障害)の発作を起こした。結果、左半身が不随となり、言語も不明瞭になってしまう。ただ、ドイツ人医師ホフマンのエレキテル(電気)療法の甲斐もあってみるみる回復した。
三月には友人たちが両国の中村楼で容堂のために病気回復の祝宴を開いたが、同年中の六月二十一日、またも発作が再発し、そのまま昏倒して息を引き取った。まだ四十六歳。まことにあっけない最期だった。死後、土佐藩士であった板垣退助は、次のように容堂を評している。板垣は倒幕派ゆえ、容堂に敬遠されていたが、そんな板垣でさえ、
「容堂は小節には拘はらない英雄豪傑の質であつて、どうも閨房が治まらないとか何とか云ふやうなことを、人が言ひまするが、さうでない、洵(まこと)に其辺の慎みのあつた人でありまして、マア一般に子孫を大事にするより、妾を置くと云ふことは、日本の風でありましたが、妾と名が付かぬ者には手を懸けたなどといふことは、決して無い人で、洵にそれも厳重な人でありました、唯御一新になつてから不平から、酒を飲みまして、遂に芸者などを妾にして居つたこともありますから、他から見た人は、どうも閨房の治まらない人であつたかの如く言ひまするが、その実決してさうではありませぬ」(「維新前後経歴談」『維新史料編纂 講演速記録』所収)
いずれにせよ新政府ができてからの五年間、容堂は鬱屈した思いで世を過ごしていた。徳川家を己の力で救済することができず、薩長の脅しに屈して時勢に流されてしまった。しかも、そんな薩長のつくった新政府の重職にいる自分に、腹を立てつつも抜け出すことができず、その火照った不満を冷やすため、酒を水のごとくあおり女を抱き、みずから己の寿命を縮めたのであった
<TEXT/歴史研究家 河合敦>