酒でうっぷんを晴らす…幕末の英雄が迎えた「46歳のあっけない最期」
徳川家を守ろうとする試み
辞官納地の決定を聞いた前将軍・慶喜は、おとなしく二条城から出て大坂城へ引き籠もった。すると「慶喜が可哀相ではないか」という諸藩の嘆願書が続々と届き、ついに倒幕派は新政府内で孤立する。勢力を挽回した容堂は、徳川家に納地を強要するのではなく、新政府に献納させるかたちをとり、さらに徳川以外の大名家にも同様の納地をさせるという案を受け入れさせ、慶喜を納得させた。
さらに慶喜を上洛参内させ、新政府の盟主に仰ごうと動き始めた。だが、江戸の佐幕派が三田の薩摩藩邸を焼き打ちし、これを知った大坂城の幕臣たちが激昂すると、慶喜はこれを抑えきれず、薩摩を討つという「討薩表」をかかげさせて京都へ旧幕府軍を進撃させてしまった。
新政府は朝議を開いて尾張・福井藩に旧幕府軍を待ち受けて撤退を勧告させることにし、指示に従わなければ薩長土の三藩で迎撃する決定を下した。なお、容堂が参内したとき、決定は下されたあとだった。容堂は「自分は議定という重職にあるのに、何の諮問も受けなかった」と激怒し、議定の辞職を請い、出ていってしまう。
新政府の政治組織で要職につく
結局、その日のうちに旧幕府軍と薩長を中心とする新政府軍が鳥羽・伏見で激突した。このとき容堂は「これは薩長と会津・桑名藩の私闘に過ぎない。私が沙汰するまでは戦ってはならぬ」と伏見方面にいる土佐藩兵に厳命した。だが、一部の土佐藩兵は、容堂の命令を無視して砲撃を始めたのである。
戦いに敗れて江戸に逃げ帰った慶喜は、家臣を通じて土佐藩留守居役の細井半之進に容堂宛ての依頼状を渡した。「私の過失で鳥羽・伏見の戦いを起こしてしまったが、朝廷に敵対するつもりはない。どうか周旋してほしい」という内容であった。
が、これまで容堂は徳川家を擁護してきたが、今後は朝廷に従うことを誓約させられていた。また正月十七日には、新しい政府の政治組織のなかで、容堂は内国事務総裁(のちに総督)という要職についた。そうしたなかで、慶喜をかばうことはできなかった。このため慶喜の依頼書は、そのまま新政府に提出された。