酒でうっぷんを晴らす…幕末の英雄が迎えた「46歳のあっけない最期」
昨年のNHK大河ドラマ『青天を衝け』では、幕末から明治期に活躍した“日本の資本主義の父”渋沢栄一が主役。一方、俳優の水上竜士さんが演じたのは、土佐藩主・山内容堂(やまうち ようどう)。
安政の大獄では、将軍継嗣に慶喜を推したことで隠居謹慎を命じられるなど、波乱の人生を送った大名だ。そんな山内容堂だが、明治維新後はどのような人生を送ったのか?
歴史の偉人たちの知られざる“その後の人生”を人気歴史研究家の河合敦氏が解説する(河合敦著『殿様は「明治」をどう生きたのか』より一部編集のうえ、抜粋)。
山内容堂、はからずも藩主へ
山内容堂(豊信)は、本来、土佐藩主になれるべき人間ではなかった。文政十年(一八二七)に、藩主・山内氏の分家筋にあたる南屋敷山内家・豊著の長男として生まれた。実母は大工の娘だったが、父から家督を受け継ぎ、千五百石を領していた。何もなければ、そのまま分家の当主として世を終えたことだろう。
ところが嘉永元年(一八四八)、土佐藩主・山内豊惇が急死する。まだ二十五歳で嗣子はなく、急きょ、容堂が従兄である豊惇の養子となり、十五代藩主に就任することになったのである。
はからずも藩主についたことから、当初は、隠居していた十二代藩主・豊資(前藩主・豊惇の実父)や重臣に政権運営を任せていたが、黒船の来航を機に、海防強化の必要性を実感し、吉田東洋を抜擢してみずから藩政改革を始めた。
ただ実権を握ってみると、自分が藩主として力不足だと知り、必死に学問の修得につとめた。机にもたれ布団をかけて書見し、そのまま眠り、また目が覚めたら書物を読むという努力のすえ、一流の学者といってもよい水準にまで己を高めたのである。そんなことから、幕末の賢侯の一人にあげられるようになった。
武市に見せる表と裏の顔
土佐藩の郷士(下士)武市半平太は、藩を丸ごと勤王(尊王)一色に染め上げ、正規軍を動かして攘夷(外国人の排斥)を実行しようと考え、郷士たちと盟約を結んで土佐勤王党を創設、反対派の吉田東洋を暗殺し、発言力を増大させた。
この頃の半平太が妻に宛てた手紙には「容堂様へ七度も御目通り仰せつけられ、誠にありがたき御意を蒙り、只々落涙いたし候」とか、「日々容堂様へ御目通りいたし、……御前にて御酒をいただき、御手ずから御銚子を御取りにて、尽力の礼についでやろうと御意にて、御上の御酌にていただき候。半平太は酒は嫌い、菓子が好きかとて御菓子一箱御前にていただき候。実に身にあまり有り難き事にて候」というように、容堂との交流が詳しく記されている。
このように、容堂はたびたび半平太と会い、酒を注いだり菓子を下賜したりしたのだ。純情な半平太は、それを単純に自分に対する信頼だと信じ、感泣にむせんだ。しかしながら容堂は、開国論者であった。だから朝廷を奉じて攘夷をおこなうなどもってのほかだと考えており、かつ、寵臣の吉田東洋を暗殺した武市を憎悪していた。
ゆえに文久三年(一八六三)八月十八日の政変で長州の尊攘派が朝廷から駆逐されると、半平太をすぐさま牢にぶち込み、長い間牢に放置したあと、平然と切腹を命じたのである。このように容堂はかなり老獪な人物だった。