綾野剛が大河で演じた「悲劇の大名」。将軍の“裏切り”から朝敵に
スケープゴートに…仕組まれた朝敵
翌四月、江戸城は無血開城した。これにより、新政府軍は戦うことなく徳川家を制圧したが、これでは戦功を得たいと願う兵士たちの欲求を満たせない。どうしてもスケープ・ゴートが必要であり、そのターゲットとして会津藩が選ばれた。
そうした事情もあって、容保がいくら新政府に平身低頭して謝罪しても、それが受け入れられることはなく、慶応四年八月末、新政府軍が会津領になだれ込んできた。
家中は、女も子供も老人も一致団結して戦うが、多勢に無勢、だんだんと劣勢に陥った。やがて三万という会津軍の六倍以上の大軍に鶴ヶ城(会津若松城)を包囲され、連日激しい砲撃をあびた。およそ一ヵ月間、持ちこたえたが、城下は灰燼に帰し、矢玉も尽きた。九月十四日には、新政府軍の総攻撃が始まり、会津側に多大な犠牲者が出、鶴ヶ城も砲弾で穴だらけになり、見るも無惨な姿となった。
ここにおいて、容保は降伏を決意、九月二十二日、鶴ヶ城に大きな白旗を掲げさせた。こうして二十四日、鶴ヶ城が新政府軍に明け渡された。容保は城を去るさい、戦死者を葬った井戸や畑に献花して冥福を祈り、城内をめぐって家臣たちを慰労したのち、妙国寺へ入った。
なお、降伏した会津藩に対し、新政府は戦死者の放置を命じたとされる。近親者を葬ることのできぬ遺族の無念さは、察するに余りある。しかも新政府は、会津藩の領地をすべて没収したうえ、藩士の身柄を越後高田へ移し、二百年慣れ親しんだ故郷の地から引き離したのである。
家臣の犠牲に容保が送った書簡
容保は、粗末な駕籠に乗せられて江戸へ護送された。死一等は減じられ、処刑はまぬがれることになったが、代わりに家老三名の首が要求された。戦中自刃した田中土佐、神保内蔵助のほか、もう一人、犠牲にせねばならぬ。その役を買って出たのが萱野権兵衛だった。これを知った容保は、萱野に次のような書簡を送った。
「私の不行き届きにより、このようなことになり、痛哭に堪えない。一藩に代わって命を捨てること、不憫である。最後に一目会いたいが、それはかなわぬこと。お前の忠義は、深く心得ている。このうえは、潔く最期を遂げてくれるようお頼み申す」
この書簡を目にした萱野は涙を流し、粛々と死出の途についたといわれる。容保の身柄は鳥取藩主・池田慶徳に預けられた。当初、木戸孝允などは会津藩士を北海道へ移住させ、開拓に従事させようとしたが、士族に開拓作業はむずかしいということになり、計画は中止された。
戦争中、容保の側室田代佐久が妊娠、明治二年(一八六九)六月に容大を産んだ。家老の梶原平馬や山川大蔵(のちの山川浩)は、この容大を藩主として家名の再興を新政府に哀願した。