綾野剛が大河で演じた「悲劇の大名」。将軍の“裏切り”から朝敵に
長州藩、土佐藩の恨みを買うことに
保科正之は、二代将軍・徳川秀忠の落胤(らくいん)だったが、恐妻家の秀忠は死ぬまで正之を我が子だと認知しなかった。その後、三代将軍・家光が、弟である正之の存在を知り、その聡明さに感心して会津二十八万石(表高二十三万石)の太守(たいしゅ)に取り立てたのである。
正之はこれにいたく感謝し、その恩に報いるべく、このような文言を家訓の冒頭にもってきたのだ。いずれにせよ、京都守護職に就任した容保は、政争の中心地たる京都において、不逞浪士や尊攘派をよく取り締まった。とくに配下の新選組は、多数の浪士を捕縛した。
ただ、浪士の多くは、のちに新政府の主力を構成する長州藩、土佐藩の出身者だったから、会津藩に対する彼らの怨みは、非常に根深いものがあった。
将軍・徳川慶喜がまさかの裏切り
大政奉還によって幕府は消滅、慶応四年(一八六八)正月、旧幕府軍は薩長を中心とする新政府軍と衝突する。この鳥羽・伏見の戦いは旧幕府軍の敗北に終わり、前将軍・慶喜は配下を見捨てて大坂城から逃亡したのである。このとき容保も、慶喜に従った。君主としてあるまじき行為であった。
ただ、喜んで従ったわけではなかった。大坂城中で突然慶喜から江戸への随行を求められたのだ。驚いた容保は、徹底抗戦を訴えたが、慶喜は立腹してしまう。そこで困って「家老と相談させてほしい」と詰め所に行ったが、あいにく誰もいない。この間、慶喜はしきりに容保に随行を迫る。このような寸刻を争う状況に、ついに容保は家臣を置き去りにすることにしたのである。
江戸に戻った慶喜は、最初は抗戦を叫んで威勢がよかったが、まもなく恭順の意を示し、新政府に憎まれている容保を遠ざけた。ひどい話だ。
二月に入ると、容保は養子の喜徳に藩主の座を譲って、新政府に恭順の意を表した。やがて、新政府軍に敗れた会津兵たちが続々と江戸に戻ってきた。当然、彼らは自分たちを見捨てた藩主に詰め寄った。このとき容保は江戸の藩邸に家臣を集め、素直に彼らに謝罪し、彼らとともに会津へ戻ったのである。