太田光のようなスタンスの選挙特番があってもいい。見直すべきは選挙報道の“謎ルール”
代表民主制の練習をしないまま世に出される子どもたち
そもそも、古代ギリシャでスタートした最初の民主制は、王による権力の私物化を避けるために市民全体で物事を決めていくというものでした。専制政治へのアンチです。
権力を集中を防ぐために考えられた制度が民主制であリ、そのベースに主である民の熟議にある。日本の中学生は議論の練習がなされているのか、さらに進んで、現在の代表民主制はどうあるべきなのかといった話がされているのか。そもそも選挙は手段であり、目的である民主制と言うものをどれだけ理解できているか? その点には、はなはだ不安があります。
欧米諸国での模擬選挙や政治教育のような環境が整備されて初めて自分の事として政治参加できます。民主主義においては当然、有権者である時点で政治参加しています。ここで参政権という議論も同時に考えるようになり、例えばアメリカの公民権運動の意味もわかるようになります。
メディアの選挙報道の謎ルール
選挙に行かない土壌と並んで、メディア報道の問題は非常に大きいと思います。例えば、衆院選の前の自民党内の総裁選はマスコミが大々的に取り上げていました。対して、衆院選の報道は減りました。テレビでは特にです。
これには各政党を平等に扱うべきという謎ルールの出現が関係しています。政党名や候補者名とかを全部読み上げなければいけないために非常に時間が取らるので、番組がそれだけでほぼ終わってしまう。だから報道しないというわけです。
選挙報道の切り口が平坦で退屈なのもそうですが、もっとも国民的議論を喚起すべき選挙期間中にもっとも政治報道が控えめになるという大変イビツなメディア状況があり、それを許容している時点で、改めて日本は民主主義国家ではないと考えてしまいます。
僕は全然そんなことをやる必要はないと思っています。日本には報道の自由が与えられたメディアが多数存在するのだから、総体として内容や分量のバランスが取れていればいいでしょう。
選挙後に投票率が低いと報じられましたが、そうさせたのは寂しいメディア報道の影響が少なからずあると思います。もちろん、新聞を見ると注目選挙区とかが細かく紹介されていたりするので、すべてのメディアが沈黙していたわけではないです。