『青天を衝け』はこれからが面白い。実は資本主義の父じゃない渋沢栄一の生涯
「儲けたい」気持ちは否定しなかった
ただし、渋沢は「儲けたい」と考える経済人の欲望は否定していませんでした。なぜなら、その欲望を否定することは経済そのものを否定してしまうからです。儲けたいという欲望が新たなビジネスチャンスを生み、それが社会を向上させていくと渋沢は考えていました。
例えば、井戸を掘れば水が手に入り、その水によって地域全体が水不足の心配から解放されます。しかし、水を得たいという欲望がなければ井戸を掘るという動機になりません。最初からみんなのために働くという気持ちだけで動ける人間はいないのです。だから、儲けたいという気持ちを否定せず、儲けた後にどう公益へとつなげるのかを考えるよう繰り返し説きました。
渋沢の代表作として知られる『論語と算盤』は、厳密には渋沢が執筆したものではありません。同書は、あくまでも講演を編者がまとめたものです。それでも、『論語と算盤』は渋沢の考え方を知ることができる書物として現代でも不朽の名著として読み継がれています。
内容もさることながら、『論語と算盤』というタイトルは渋沢の思想をよく表しているといえるものです。算盤は、言うまでもなく経済のこと。金を稼ぐと言い換えてもいいでしょう。
一方、論語とは道徳心や公共の精神ということになります。肝心なのは、算盤よりも論語が先になっていることです。タイトルでも、論語が上位概念であることを暗示しているのです。
岩崎弥太郎とはスタンスが異なっていた
多くの企業を興した渋沢は、1931年に満91歳で没しました。当時の人としては、かなりの長寿といえます。渋沢は、50代に入った頃から企業の営利活動からは少しずつ離れていきました。そして、病院・学校・国際交流といった非営利活動へと傾斜していくのです。
ちなみに、活躍した時期が重なることもあり、渋沢と比較されて語られることが多い人物として三菱財閥創業者の岩崎弥太郎がいます。あるとき、岩崎は力を合わせて日本経済界を共に支配しようと渋沢に持ちかけました。岩崎は「人の力を集めるのは時間がかかるし、1人で物事を進めれば判断は鈍らない」という専制主義を貫いていました。渋沢は、岩崎と事業へのスタンスが異なるという理由から、持ちかけられた話を断ります。
岩崎弥太郎は、1885年に50歳で病没。後を継いだ弟の弥之助(2代目三菱総帥)、息子の久弥(3代目三菱総帥)、弥之助の息子の小弥太(4代目三菱総帥)などが財閥解体まで三菱を率いました。4代にわたって三菱財閥は、美術館や学校運営といった非営利事業の支援にも積極的に取り組んでいます。
決して三菱が非営利事業に不寛容だったわけではありませんが、渋沢と比較してしまうと見劣りする印象が出てしまうのは仕方がないのかもしれません。